美人で綺麗な性悪ビッチだと思っていたら処女だった件について
想像と違う。というのはいつの時代にも何事においてもつきまとう。想像とは個人の独断と偏見で形作られたものであり──などと語ると賢く思えるが、身も蓋もない言い方をすれば、思い込みだ。妄想だ。根拠も形もないものに固執して失望するのは愚か者の所業だし、そんな身勝手なものを押し付けられたあげく勝手に失望される側も堪ったものではない。そんなわけで、妄想や思い込みは存分にするけれど、決めつけはしないようにしている。
今更そんなことを考えているのは、まさに「想像と違う」出来事が昨晩あったからだ。
想像と違うことで動揺するほど若くもなければ、思いだの感情だのが失せるほど軽率でもない。千年と少し、美人だ綺麗だと思っていたところに可愛いが飛び込んできただけの話だ。
何事もなかったように去っていく横顔の、琅玕翡翠の飾りを下げている耳が淡紅に染まっていた時など思わず引き留めそうになった。
まあ、何というか。散々煽られ続けた身としては一度ぐらい関係を持っておけば良かったと悔いる程度には違った。
生前、陰陽寮から距離を置き、陰陽寮の術士を凌ぐ実力を備えた道満の元には様々な身分の者が出入りし、虚実入り混じった噂が流れていた。中には年頃の娘には聞かせたくない類の噂もあり、真偽の程は……月の光をよすがに寝所に姿を見せた道満の所業からすればむべなるかな。といったところだ。
当時は様々なしがらみや役目もあり軽率な振舞いをするわけにもいかず、精々が口吸い程度で追い返していたが、カルデアに召喚された身に課せられた役目はマスターに仕え、助けることだ。異聞帯の攻略も異星の神との戦いも何もかも、役目の先にある結果──ということで、今回は煽りに応えてみた。
組み敷いた時の顔など、瞳孔を開いた猫のようで大層愛らしかった。
美人で身体が綺麗だから妖艶ではあったのだが、全体的な印象で言えばなぜか可愛かった。次は朝まで隣にいてもらおうと考えていたところに食堂のメニューが配信されて、夜通し起きていたことに気がついた。
朝食を確認しつつ今日のスケジュールを開くと、午後に予定されていたブリーフィングがキャンセルされている。昼寝をしてもいいし、昼過ぎから開催される魔術師(有志)有志による講習会に参加してもいいだろう。
モニターを閉じて自室を出る。朝食の時間には早いが、人が混み合う中で食事をするのはどうも苦手だ。
静かな通路から食堂を覗くと、早起きなサーヴァントが数名、食事をしていた。そんな中にひとり離れた姿を見出して、少し浮かれた気分になる。
想像と違うのは、悪いことばかりではない。そんなことを思った。
「おはよう」
「おはようございます。席はたくさん空いてございますよ。ああ、お見えにならないようであればご案内いたしましょうか」
定食のトレイを手に向かいに座った晴明に対して、道満は立板に水を流すように嫌味を述べた。
「見えているからここに座るんじゃないか」
「……左様でございますか」
晴明にちらりと視線を向けた道満はすぐに視線をそらして赤身の焼き魚を口にした。嫌味はいつものことだが違和感を感じる。具体的に指摘するとしたら、嫌味が少ない。
しばらくは二人とも黙々と食事をしていたが、あっという間に食べ終えた道満はトレイを手に無言で席を立つ。
友好的な関係とは言えないけれど知らぬ仲でもあるまいし、一言ぐらいあってもいいのにと思いながら後ろ姿を眺めていると、そういえば細い腰だった。などと余計なことを思い出す。
ひとつ思い出せばあれもこれも思い出してしまう。この時ばかりは感情が顔に出なくて良かったと考えていた晴明はトレイを手に戻った道満に気づく。
トレイには大小の器が二つ、乗っている。
よく食べるのは生前からなので驚きはしないが、何を食べるのか気になる。
手元を眺める晴明に道満は嫌そうな表情を浮かべた。
「……何です。どうせ、まだ食うのかとでも思っているのでしょう」
「今更そんなこと気にしませんよ。何を食べるのかと思って」
器に盛られた炊きたての飯と卵を眺めながら晴明が答える。
「卵かけご飯はおいしいですからねえ。気持ちはわかります。私たちが生きていた頃とは米も違いますし」
道満は小さい器の縁に卵を打ちつけて割り入れた。
「毎食ごとに暖かい飯が食べられるのはかなりの贅沢でございますしね。ま、何の卵かは考えずにおきますが……」
何とも不気味な、含みのある呟きをもらしつつ道満は手際良く卵をかき混ぜた。
器と箸が触れてかちかちと小さな音を立てる。
「私も考えないようにするよ」
晴明の視線の先には食べかけのオムレツがある。召喚に際して与えられた知識によれば、マスターが生きる時代で鳥肉、卵といえば多くはにわとりを指す。が、カルデアではいささか事情が異なる。その辺りは厨房を預かるサーヴァント達がしっかりしているので心配していないが、食材の正体を考えはじめるとキリがない。
「……あなたがパンを食べているところなど、初めて見ましたよ。珍しいことで」
道満も飯に醤油をかけまわしつつオムレツを見ている。
「ほら、赤い弓兵……エミヤどのが手がけるオムレツは大層おいしいと聞きまして。外つ国の食事に親しむのも良いかと思いましたしね」
食欲旺盛ではないが、皆がおいしいと褒めそやすものは食べてみたい。朝食メニューのメインにオムレツがあり、調理担当にエミヤ(弓)の名を確認した瞬間に晴明の朝食は決まった。
皆が言うだけあっておいしい。食わず嫌いはよくないと改めて思いながらオムレツを食べている向かいで溶き卵の器を傾けたまま道満が固まっている。
「道満? どうしました」
「いいえ? なんでもありません。ええ、ありませんとも」
溶き卵をかけ回した飯をざっと混ぜた道満はそんなことを言って卵かけご飯を食べはじめた。
なんでもないようには見えないけれど、と考えながら晴明は生野菜を食べて気づく。
「おまえも食べたいんですね、オムレツ」
「……そういうわけではありません」
道満はいかにも興味がないという顔をしているが、あの反応の後にこれでは食べたかったと言っているようなものだ。道満が性悪なのは紛うことなき事実だが、たまにわかりやすい一面を見せるのでどうにも憎めない。
「どうぞ」
空になった器を置いた道満の口もとにフォークですくったオムレツを差し出した行為に深い意味はない。道満が食べるわけがないし、棘のある言葉か嫌味か、もしくは正気か? とでもいいたげな視線のいずれかで終わるだけだ。要は、少しばかりふざけてみただけだ。人嫌いの猫を抱えて怒らせる気分に似ている。
だから差し出したオムレツを道満が食べた時は驚いた。本当に、感情が顔に出ない質で良かったと心底思う。
「成程。おいしいですね」
ごく普通に感想を告げられてしまうと晴明としては普通に返すしかない。
「次は温かいうちに食べられるといいですね」
できたてのオムレツはとてもおいしかったのでそんなことを言ってはみたが、朝食のことなど消し飛んでしまった。わざとなのか深く考えていないのかすらわからない。平静を装ってパンを口にしてみたが、味がしない。
「そうですね」
さらに普通の返答が道満から返ってくるに至り、晴明は確信した。
蘆屋道満がおかしい。
かと言って顔に出したり下手に尋ねると道満はそれこそ猫のように逃げてしまうだろう。
味のしない食事をしながら晴明は道満の様子を窺う。しばらく沈黙が続き、道満が静かに立った。
「──拙僧、講習の準備がございますので失礼を」
晴明が何か言うよりも早く、道満は食堂から立ち去った。
一緒に席に着いたのならともかく、一方的に晴明が押しかけた今の状況で、先に席を立つことに断りは必要ない。礼儀としては断りを入れた方が波風も立たず、人間関係も円滑に進むというものだが生前や今までの経緯を思えば晴明と道満の関係は円滑などという表現には縁遠い。むしろ嫌味を残して去っていくぐらいがちょうど良いし普段の道満なら間違いなく嫌味を言うだろう。
あまりに考えがまとまらないのでコーヒーでも飲もうと晴明も席を立った。ついでに食べ終えた食器類を返却口に戻すと、厨房で忙しく立ち働く赤い弓兵と目が合う。近代の英霊ということもあるのだろうが、マスターやシールダーの信頼も篤く、戦闘面だけでなく精神的な支えを担っていることが伺えた。
殺伐とした日々の中で、暖かな食事がもたらすものは栄養だけではないはずだ。
軽く頭を下げた晴明はエミヤに声をかけた。
「おいしかったです」
「良かった。貴方が和食以外の定食を選ぶとは珍しいこともあるものだと気になってしまってね」
「皆がエミヤどののオムレツがおいしいと言うものだから、気になってしまって」
いやあそれほどでも。と答えるエミヤは満更でもない様子だった。
「私が生きた時代は調味料や調理方法に限りがありましたからね……カルデアの食事はおいしいし、食べていて楽しいです」
「それは何より」
一瞬、少年のような笑みを浮かべたエミヤはすぐに眉間にしわをよせて晴明の元に歩み寄る。
深刻な相談でもあるのか、と思っているとエミヤは声を落として呟いた。
「蘆屋道満、様子がおかしいように思えたのだが」
向かいに座ってもすぐには気づけなかった道満の異変を、厨房で朝の支度をしていたエミヤが気づいていたというのはあまり面白くない。柄にもなく嫉妬などしてしまいそうだ。
「確かに少し、考え事などしている様子ではありましたが……不審なのはアレの特性のようなものですしね。何か気になることでも?」
気取られぬように鎌をかけると、エミヤならではの視点で答えが返った。
「普段より食が進んでいないようだったので」
晴明は道満が食べていたものを思い返して、確認する。
「定食に卵かけご飯も食べていましたよね?」
エミヤはうなずいて、重々しく晴明に告げた。
「普段の蘆屋道満ならさらに定食を追加するし、何なら甘いものも追加する」
「…………」
厨房に詰めるサーヴァントはメニューの開発に余念がないというから、食堂利用者の嗜好や傾向をある程度把握しているはずだ。現にエミヤは晴明が和食を好むことを把握しており、パンを添えた定食を選んだことが気になっていたと言っている。道満の異変にエミヤが気づいたのは「食堂利用者の様子が普段と違う」という理由だろう。
「それはおかしいかもしれませんね。気にかけておきます」
理由がわかれば嫉妬する必要はない。快く請け負うとエミヤは何となくほっとしたような表情を浮かべた。
「よろしくお願いする。蘆屋道満は見ていて気持ちが良いぐらい食べるから作る側としては嬉しいのだが……ほら、普段が普段なので……」
言葉を濁すエミヤの気持ちはわからないでもない。道満は虚実入り混じった言動で周囲を不審の渦に叩き込み、それを笑って見ているようなところがある。信頼されようなど端から考えていないし、理解すら拒んでいる節がある。
マスター以外の者が蘆屋道満を信頼し、理解しても晴明としては困るので、それでいいのだが。
「大丈夫ですよ。アレの相手は慣れています」
今からその理由を考えるつもりだったので、とは言わずに笑った晴明にエミヤは個包装された焼き菓子を二つ、手渡して厨房に戻っていった。
気配りの塊みたいな英霊からもらった焼き菓子とコーヒーを手に席に戻った晴明は道満の言動を振り返る。
向かいの席に座った時点で嫌味が少ないとは思った。そもそも、公共の空間で晴明から道満に近づくことが珍しいのでこの時点で自分が少し浮かれているのは認める。ただ、晴明が近くにいれば道満は距離を取るし、距離が取れない状況であれば嫌味を言う。席を変えようと思えば変えられる状況で嫌味を言うのは道満らしくない。席を立った時にでも違うところに座れば良いものを、律儀に戻ってきたのも妙だ。一番おかしかったのは何も考えずにオムレツを食べたことだろう。普段の道満なら絶対にそんなことはしない。言い訳のような断りを入れて去っていったのも、らしくない。
想像と違うからといって決めつけはしない主義だが、観察と経験に基づいて導き出した行動パターンは「想像」ではない。
距離感が異様に近くなっているのかもしれないと考えながらコーヒーを飲んでいると、ふっと影が差す。
「──おはようございます。晴明さま」
「おはよう。香子」
紫式部がトレイを手に、晴明の隣で足を止めていた。
「いつもより少し早いのではないか? どうしたね」
「今朝はエミヤさまがオムレツを作ってらっしゃるそうなので、早起きいたしました」
嬉しそうに笑う紫式部のトレイには出来立てのオムレツがあった。
「私も食べたがおいしかったよ。せっかくだから冷めないうちに食べてしまいなさい」
はいと素直に返事をした紫式部は会釈して晴明の元を離れたが、すぐに戻った。
「あの、晴明さま」
「うん」
香子のことだから図書館の空間拡張についての相談でもあるのだろうか、と思った晴明は思わぬ言葉に耳を疑った。
「先ほど法師さまにお会いしたのですが、去り際に壁にぶつかってらして……」
「ん?」
「大丈夫ですかとお声がけをしたのですが、考え事をしていたのでと仰られた先から躓いておられました」
「────」
「わたくし、あのような法師さまのお姿を初めて拝見したのですが、大丈夫でしょうか……」
壁にぶつかった直後に躓く蘆屋道満など晴明でも見たことがない。間違いなく大丈夫ではない。
「大丈夫ではないね……道満がどこに行ったかわかるかい?」
「はい。本日午後からの講習会の為に資料を作成したいと、図書館へ……」
「ありがとう」
安心した様子で紫式部は空いた席に向かう。
蘆屋道満が変だ妙だ何か企んでいる気がするという訴えは今に始まったことではないが、今朝ほどの異変は初めてだ。
食堂での道満は距離感が近くなっていたと仮定して、エミヤが気にかけていた食欲減退と紫式部が目撃した一連の行動は、何かが頭のほとんどを占めており、それどころではないという心境が目に見えて現れたと考えていいだろう。
昨日はそんな様子ではなかったので、夜から朝にかけて何事かあったのだろうと推測はできる。夜から夜半にかけての出来事なら晴明自身がよく知っている。夜半から朝にかけては知らないが。
たかが一度、まぐわった程度で距離感が近くなるとは考えづらい。処女でもあるまいし……と何気なく思った晴明はコーヒーのカップに伸ばした手を止めた。
朝から回想するような情景ではないが、昨夜の様子を思い返してみると思い当たる節がいくつも出てきた。晴明が想像していた道満は手練手管に長けており、それ相応にすれた反応が返ってくるものと思っていた。それが、何をしても反応が新鮮であったり恥じらいが見えたりで想像と違って可愛い、と認識したのだが……
冷めたコーヒーを飲んで、晴明は頭を抱えたくなった。
それならそうと、組み敷いた時にでも言えばいいものを。無理をさせた覚えがなくもない。
晴明は手をつけなかった焼き菓子と空のカップを手に席を立った。途中、紫式部の元でいくつか許可を取り付けてからカップを捨てて、新しいコーヒーを入れる。
人が増えはじめた食堂を後にして図書館に足を向ける。時間帯もあってか人の気配はなく、おかげで道満を探す手間が省けた。
晴明は座標を固定して空間を切り出し、消滅しないように結界を構築する。この時点で何らかの反応もしくは抵抗がないことからも道満が常態ではないとわかる。
書架に面した通路を抜けて、切り出した座標の元へ歩く。
閲覧スペースに割り当てられた一角が黒く塗りつぶされている光景は術者である晴明が認識しているだけであり、何も知らない者には通常の空間が広がっているようにしか見えないはずだ。理論上、数時間ならカルデア側の認知も無効にできる。
黒く塗りつぶされた中に足を踏み入れると、道満の背が見えた。資料と思しき本に目を通している。
「──道満」
晴明は声をかけると翡翠の耳飾りに触れる。
弾かれたように振り返った道満は驚いたように晴明を見て、顔をそらした。
「……何か御用ですか」
開いていた本を閉じた道満はできるだけ晴明を見ずに呟いた。警戒しながら逃げる隙を伺っている猫のようだ。逃げる場所などないけれどと声には出さずに呟いて、晴明は椅子に腰掛けるとコーヒーと焼き菓子を机に置く。
「尋ねたいことがあってね。ほら、こちらを向きなさい」
机を指で叩いてみるが、道満は視線すら向けようとしない。
「貰い物で申し訳ありませんが、差し入れです。真面目に講習の準備を進めているのは良いことですから」
「……ここは飲食禁止でございます」
道満はコーヒーと焼き菓子に視線を向けたかと思うと、再び視線をそらしてしまう。
「香子に許可は得ています。本を汚さないように。それと、空間を切り出す許可もね。気づいていますか?」
晴明の言葉に道満は周囲を見渡し、初めて驚いたような顔をした。
「……私が言うのも何ですが、本調子じゃありませんね。自覚はありますか」
「──ありますよ。ありますから放っておいていただけますか」
投げやりに小さく呟いた道満は頑なに晴明を見ようとしない。ただ、白い耳に血の色が上っているのが見える。上気した肌を思い出すのでこれはこれで目の毒だと晴明は思ってためいきをついた。閉鎖空間を良いことに良からぬ事をしでかしてしまいそうだ。
「不躾を重々承知の上で尋ねますが、おまえ、ああした交わりは初めてだったのではありませんか」
道満は身動きひとつせず、答えもしないが耳だけでなく顔までも赤く染まっていく。この状態で答えろと言うのも酷な話だ。
「答えなくてもいいですよ。わかりましたから……であれば、私はいくつかの行為を詫びなくてはなりません」
「……はい?」
ようやく道満は晴明に視線を向けた。
「具体的に言うと話が進まなくなりそうなので言いませんが、無理を強いたと思います。嫌なものは嫌と言っていいのですよ、ああいう時は、特に」
視線をさまよわせていた道満は晴明の言う「無理」に心当たりがあったのか、目を伏せた。
「申し訳なく思っています。次は──」
「いえ別に」
道満は目を伏せたまま晴明の言葉を遮った。
「拙僧には快楽主義とかいう愉快なものが付与されておりますし、それに……まあ、ともかく、晴明どのが気にかけるようなことは何もございません。ですので、お引き取りを」
途中、何事かを言い淀んだ道満は早口で言葉を終えてしまうとまた顔を背けてしまう。何となくではあるが、道満がなにもかもなかったことにしようとしている気配を察した晴明は息をついた。
「何を言っているんですかおまえは。気にかけることばかりですよ。例えば、体は辛くないか気分はどうだろうか、とか。次も許してくれるだろうか、なども考えたりしますしね」
次、という言葉に道満が反応を示す。考えたこともなかったとでも言うような顔をしているが、まさか一度で終わると思っていたのだろうか。
「……それはともかく、どうして黙っていたのです」
道満はしばらく黙っていたが、なぜか生前の話を始めた。
「──拙僧が寺に預けられた頃には、すでに大人ほどの背丈がありまして」
道満が幾つの頃に、どこの寺に預けられたのかを晴明は知らない。知る必要もないと思っているが、ここまでの背丈に育つはずの子だ。童の頃から大人ほどの背丈があっても不思議ではない。力仕事には重宝したのではないだろうか……僧侶たちが有り難がり、欲を向ける稚児としては不向きかもしれないが。
「おまえほどの背丈であれば不思議はないでしょうね」
晴明の肯定に道満は頷く。
「幸か不幸か、そういった対象にはならず過ごしてまいりましたが、嫌でもそう言った話が聞こえてくるため、知識だけは身についてしまい……」
整った顔立ちをしているので、体が小さいかもっと幼い頃に預けられていたらそこそこの地獄を見たのではないかと晴明などは思う。嫌でもその手の話が耳に入る環境など考えたくもない。とはさすがに口には出せなかったので晴明はだまって頷くに留めた。
「その知識は式神に与えた為、役には立ちました。ただ、その……」
「何です? 今更何を聞いても驚きませんよ。どうしたのです」
何事かを言い淀んでいる様子の道満を晴明は促す。質問への答えには繋がらないかもしれないが、道満が生前の、しかも陰陽師として都に現れる前の話をするなど今までにないことだ。弟子として近くに置いているときでさえ語らなかった。
「自身を模した式神ですので、感覚に繋がりを持たせておりまして」
「難しい式神を作ったものですねえ」
術者本人を模した式神の作成自体はそう難しくない。ただ、感覚を共有するとなれば話は別だ。作るのに手間がかかるし操るにも制約がある。身も蓋もない言い方をすれば、本人が出向いた方が早いため普通の陰陽師ならそんなことはしない……道満は良くも悪くも普通から外れた陰陽師だった。
「……どうにも相手をする気になりませぬので、仕方無しにというところですな。交わりに関しては式神を通して一通りは体感しておりましたので、昨夜も特に問題無かろうと判断いたしました」
「ふふ。なるほど──そうでしたか」
舐められたものだと感じる一方で、人を狂わせることもある情欲を甘く見過ぎているとも思う。よくもまあ、悪い男、もしくは女にひっかからず生きて死んだものだ……安倍晴明ほど厄介な男もいないだろうが。
だが、道満の説明には齟齬がある。
話を信じれば、道満が感覚を共有する式神を作ったのは「自分で相手をする気になれなかった」という理由だが、晴明の寝所に度々現れたのは間違いなく本人だ。性に奔放ならわからないでもないが、身体を許す気はないのにさあ襲ってくださいと言わんばかりに擦り寄るなど正気を疑う。
「では何故、私の元にはおまえが姿を見せたのです? どうにも相手をする気になれなかったのでしょう?」
晴明の問いに、実に嫌そうな表情を浮かべた道満は渋々といった様子で口を開く。
「──その式神は晴明どのの邸宅に送ったこともございます」
「そういえば、出来の良い式神が来たことがありますね」
道満を模した式神を覚えていたのは晴明から見ても出来が良く、完成度が高かったからだ。感覚の繋がりまでは確認していないが、式神相手なら多少ふざけても構わないだろうと考えたことも覚えている。
「覚えておられるかはわかりませんが、晴明どのは式神を追い返す際に口吸いをなさいました。その際の感覚が他とは違う気がいたしまして」
覚えてはいるけれど。
「拙僧本人が確かめに出向いていたという訳でございます」
式神が何かを伝えることも想定はしていたけれど。
まさかそんな理由で本人が出没するようになったとは夢にも思わなかった。
有象無象と比較されていたあたりはある意味想定の範囲内だが、行動の根拠を理解していない。師として、物事には必ず根拠があるとあれほど教えたのに、どうして感情や感覚に適用しないのか。
身体の相性など口を吸えば大体はわかるもので、他と違うと感じて次を思うのならそういうことだ。それに、相手をする気になれなかったから式神を作ったと言いつつ、本人が出向く気になった時点でその気になったも同然だ。
晴明は喉まで出た言葉を飲んだ。
色事への理解や感覚はあるのに感情を認識していない道満にかける言葉ではなかったし、弟子の頃に情緒面も見てやればよかったと柄にもなく思ったことも手伝った。
「──生前の動機は理解しました。ですが生前の話。今も夜這うのは一向に構いませんが、何か思うところがあったのではないですか」
できるだけ淡々と、いつもと変わらないように、しかし迂遠に問いただすと道満は髪のひとふさをくるくると弄びはじめた。
「……それは」
「はい」
「まさか晴明どのがそんな気になるとは考えておらず……暇つぶしというか、その。なんとなく」
暇つぶしでなんとなく夜這いをし、なんとなく煽った。
──誰が信じるものか。これがごく普通に生きている民草に対してならわかるが相手は安倍晴明。蘆屋道満にとって師であり仇敵であり、殺し、殺された相手だ。
不審の塊とみなされている道満が何物にも染まらぬ感情を抱えており、それを知る者はひとりしかいない。という事実は非常に好ましいが先が思いやられる。道満は心のうちにある感情に気づいた途端に逃げるはずだ。今のうちに捕まえておくしかない。
それはそれとして、そんな気になると思わなかった。というのは双方に失礼だと思う。
晴明は机を指でとんとんと叩いた。
「これでも男で雄ですからね。その気になることだってあります。おまえのように綺麗な者に言い寄られるなら尚更です」
つい本音が漏れたが、道満の表情に変化がないところを見ると気づいていないか、当然のことと受け取ったようだ。道満は恨みがましい目で晴明を睨めつけてから髪を手放して焼き菓子を取る。
「生前は叩き出していたではありませんか……」
綺麗と評して恨みがましく睨まれるのは初めてだと思っていた晴明は、実に不満げな道満の呟きに耳を疑った。当の本人は長い爪で器用に包装を破いている。
「おまえ、今、何を言ったか自覚はありますか?」
「……は?」
短く、不機嫌な言葉を晴明に返した道満は焼き菓子をひと口で食べてしまった。好みの味なのか、表情が僅かに和らぐ。
無自覚なのは理解できたが、ここまで自覚がないとは思わなかった。まるで童を相手にしているようだ。自覚するまで抱き潰してやろうかと思ったが、道満のことだ。よくわからない理屈を捏ねて感情から目を逸らすに決まっている。
再び、晴明は指で机を軽く叩いた。
「生前から私とまぐわいたかったと言っているようなものですよ」
コーヒーに手を伸ばした道満は胡乱なものを見るような目を晴明に向けて、何かを言おうとした。
手を引き、視線をさまよわせて再び晴明に向けた目は困惑に満ちている。
「何故私を見るのです。答えはおまえの中にしかないというのに」
違うなら違うと言えばいいものを、否定の言葉が出ない時点で認めているようなものだ。だからあれほど、根拠を確かにしろと言ったのに。
晴明はためいきをついた。
「……エミヤどのと香子がおまえを気にかけていましたよ。もう少し、しっかりなさい」
わざと言葉を強めて釘を刺すと、さすがに道満も表情を一変させた。そうでなくては困る。こんな頼りなげな様子でカルデアを歩かれては堪ったものではない。
「言われずともわかっております。いつまでも引きずったりはいたしませんので、ご安心を」
棘のある言葉を言い放ち、道満がふいと顔を背ける。表情は平常に戻っていたが、眉間のあたりに寄るしわが不貞腐れていると示している。
普段ならそのまま放っておくところだが、これ以上齟齬が生じては困るので晴明にしては珍しく、言葉を付け加えた。
「そんな顔を私以外の者に見せるなと言っているんです。それと、引きずるぐらいなら今夜もおいで。寝物語を聞かせてあげましょう」
道満は黙っているが、耳が淡く朱に染まっていく。先が思いやられるのは確かだが、それも良いかと思えるほどには可愛い。
頬が緩むのを感じながら、晴明はそっぽを向いたままの道満を見つめていた。
「早起きをした甲斐がございました」
返却口では紫式部がエミヤと会話を交わしていた。厨房に詰めるサーヴァントの交友関係は広いが、微小特異点攻略に駆り出されることも多いエミヤはことに顔が広い。紫式部とは夏の特異点からの仲だった。
「気に入ってもらえて何よりだ」
「はい……オムレツもそうですが、現代の卵料理は多様でおいしくて、良いものですね。わたくしが生きた頃は調理方法も調味料も限られておりましたから」
にこにこと嬉しそうに笑う紫式部にエミヤも笑みを返す。
「晴明どのも同じことをおっしゃっていたよ。厨房に入るサーヴァントの多くも始めは同じ感想を抱くようだ。紅閻魔の女将や玉藻御前などは馴染みがあるようだけど」
「知識として有していても、実際に使う、食べるとなると異なりますので……」
「そうだね。ああ、昼はおやつに焼きプリンが出る予定だよ。担当はブーディカだがね」
食堂のメニューは当日朝に一日分が配信されるが、厨房のメンバーは一週間分の計画をある程度決めて食材をやりくりしている。食材に余剰があればおまけがつくのは多くの者が知っており、ブーディカの焼きプリンも嬉しいおまけ、というところだ。
「それは楽しみです──厨房の皆様は生きた時代も地域も違うというのに、仲が良くて、本当に何よりです」
紫式部は少女のように目を輝かせた一方でどこかしみじみと言う。平安の世に生きたサーヴァントたちには大なり小なり確執がある……そんなことを思ったのだろう。
「異なる時と場所で生きたから争わずに済むのかもしれないよ。それに、意見の相違が生じたとしても、争いが目的ではないからね」
カルデアでも古参の部類に属するエミヤはどこか達観したように呟くと、ところで。と言葉を継ぐ。
「式部さんの言葉に便乗するようで申し訳ないのだが、晴明どのと蘆屋道満は実際、どのような関係なのだろう。確執があるのはわかるのだが」
「晴明さまと法師さまですか……」
考え込む様子を見せた紫式部の表情が次第に険しくなる。険しいというよりも困惑していると表すべきかもしれない。
「蘆屋道満は生前とは異なるとも聞いているのだが」
エミヤがさらに問いを重ねると、紫式部はようやく口を開いた。
「……お召し物や行使する術など異なるところもありましょうが、法師さまは基本、お変わりないかと」
「えぇ……」
紫式部の言葉に対して漏れた、疑うような、呆れるような呟きにはエミヤの「平安時代でもああだったのか?」という思いが込められている。表情からもそれは明らかだ。
一方の紫式部は深々と頷いた。
「心のうちが見えぬ方でございました。晴明さまもです。わたくしにとってお二人は、異国の獣のように思えました」
「面白い表現だね」
「……獣の言葉は互いにのみ通ずるもの。目にする光景もわたくしどもと違いましょう。お二人は、そういった関係であると思うのです」
独特な例えを説明した紫式部は神妙な表情で目を伏せた。獣だけではなく異国と重ねたのはどこまでも理解ができない存在であるから──だとエミヤは察した。
「つまり、私たちには理解ができない。と」
「はい……晴明さまは時折おっしゃっていました。あれで可愛いところもあるのだと」
安堵した様子の紫式部はとんでもないことを口にし、エミヤは今度こそ心の声を口にした。
「可愛い……だと……? どこを……どうすればあれが……?」
こくこくと頷いた紫式部は、なぜか声を潜めて呟いた。
「ですので、その。確執があることも確かでございますが、それだけではないと……」
「……なるほど」
歯切れの悪い言葉に短く返事をしたエミヤは僅かに考える素振りを見せる。
「あの、何かございましたか……?」
「いや、少し気になっただけだよ。ありがとう式部さん」
気遣うような言葉にエミヤは笑う。紫式部もつられて笑い、少しためらった後に切り出した。
「ところでエミヤさま。フレンチトーストがメニューに加わったりは……」
「次の話し合いで提案しておくよ。評判がいいからね」
ぱっと表情を輝かせた紫式部は嬉しそうに何度も頷くと、楽しみにしておりますと丁寧にお辞儀をして去っていった。
エミヤは席の空き具合を確認して厨房に戻る。そろそろ皆が活動を始める頃だ。朝のピークに備えて下拵えを進めなくてはならない。
作業は手早く手際良くがモットーのエミヤだが、今朝は手が止まりがちだ。
「……何かの見間違いだな、おそらく」
ぽつりとひとりごとを漏らしたエミヤはいつものように下拵えに集中する。
見間違いだと思うべきだ。そういうことにしておかないとひどく嫌な予感がする。
──晴明が道満に何かを食べさせていたように見えたなど、目の錯覚だ。