安倍晴明、懸想した法師に現界先で袖にされること
召喚されたことはマスターより伺っておりました。人理の為、存分に手腕を振るわれるがよろしいかと。嬉しくはないのか、と? はあ。術の研鑽に一層励む心持ちにはなりましょう。して、何用にございますか。夜分のお訪ねとあらば、至急の案件かと存じますが……ふむ。共寝をせよと。
お断りいたします。ここカルデアには貴方さま好みの美形が山ほどおられます。誰を憚ることもなければ、このような下手物に手をつける道理はございませぬ。はい。拙僧、リンボなる者の記録を有しておりますが、悪鬼羅刹の如き外道からも学ぶことは多うございまして。したくないこと、嫌なことは投げ出しても良いのだと識りました。ゆえに、お断りいたします。
ン? ンンンン? 何を仰っておられるのか拙僧にはさっぱり……ああ、お気遣いなく。閨での虚言を信じるほど拙僧も愚かではございませぬ。それでは良い夜を、安倍晴明どの。
さて。
道満は何と言っていただろうか。
開く気配のない自動扉を前に、最高最優を自認する陰陽師、安倍晴明は踵を返す。
すれ違うサーヴァントに目礼を返し、時に雑談に応じて割り当てられた自室に戻ったが、誰と何を話したものか覚えがない。
趣きのかけらもないベッドに腰掛けて会話を思い返すが何が起こったのかよくわからない。道満の美貌が生前と全く変わりがないのと、装束が少々目の毒ではないかと思ったのは強く覚えているのだが、そこから先は覚えていない。というよりも思い出したくない。
考えるまでもなく。
自室でひとり、呆然としている時点で客観的な視点では一目瞭然だが考えたくない。どうしても認めたくない。事実を認識したくない。良い歳をした大人がどうかと思うが無理なものは無理。しかし事実は歪みなく認識しなければならない。
結果、一睡もできなかった。
サーヴァントに睡眠は必要なく、そもそも眠るつもりなどなかったが、相手がいるかいないかでは意味合いが全く違う。
道満の悪意とやらが活動を始めた頃から観測を続け、少々やりすぎではと思いつつ行き着く先が自分であることには大層満足したし、カルデアに召喚されて悪さをする姿は相変わらずで、早くお呼びがかからないかと心待ちにしていたのに呼ばれてみればこれだ。
言伝はないのかと香子に尋ねてみたり、戦闘中に名を呼んでみたりと愛らしいにも程があるのに顔を合わせたら良い笑顔でお断りとかツンデレかと一瞬思ったが、ツンもデレもなかった。心から晴々と、恋人だと思っていた相手に袖にされたのだ。安倍晴明とかいう男は。
対立したことは確かだ。諍いがあったのも認めよう。何なら手にかけもしたが、番とまで思った者の最期を有象無象に委ねるなど我慢ならなかった。誰に理解されなくとも、道満だけはわかってくれるはずと思って幾星霜。どんな恨み言も呪詛も受け入れて、昔のような関係に戻れたらと影法師なりに思っていたが、門前払いを食らった。というのが現状だ。
……物事は前向きに考えるべきで、同陣営並びに同じ屋根の下(広義)にいるというのは喜ばしい。陰陽師として同じ戦線に出向くこともあるだろう(陰陽師として鬼一法眼が名を連ねているのはこの際見なかったことにしておく)。時間もあるし、会話を重ねれば問題は解決するはず……だが、嫌な予感がする。
嫌々、昨夜の道満が何を言っていたのかを思い返す。
道満はリンボの記録からも学ぶことがあると言っていた。道満がリンボに飲まれたのはあくまで特異点の話。晴明が覚えている限り、平安京に赤い月など昇ったことはない。この事からリンボの行状から学んだのはサーヴァントとして現界してから。多めに見積もって、座に登録された後でも構わない。
したくないこと、嫌なことは投げ出していいと学んだのだと清々しいほどの笑みを浮かべて道満は言った。心と感情を隠したいつもの笑みではない。
……力があるとはいえ、所詮は在野の陰陽師。晴明はそんなことを一度たりとも考えたことはなかったが、他は違った。断らないのではなく、断れないことを理解した上で面倒事を押しつけていた者は多かった。あまりに目に余るので晴明が手を回したことは一度や二度ではない。断りなさいと何度諭しても、道満は静かな笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。そんな道満が断ることを覚えたのは実に喜ばしい。嫌なことは嫌だと言えるようになったのだから……そう。嫌だから、したくないから断られたのだ。
あれこれと良い方向に考えてみるが、生憎とこの頭は現実的な解を導き出すようにできている。贔屓目に見積もっても、生前の蘆屋道満は安倍晴明の相手を嫌々していたとしか思えない。
つまり、恋人だと思っていたのは自分だけで、道満にとっては房事を強いる厄介者ということになる。諭した結果があの笑みなのも今ならわかる。どの口で言うとんねんおまえ、ぐらいは思っていただろう。
褥を共にしたきっかけだとか、閨での囁きだとかそんな問題ではないと気づいた時には昼が過ぎていた。
紫式部はカウンター内で困惑していた。
図書館の利用者は総じてマナーが良く、館内で騒いだり書籍を雑に扱うような不心得者はいない。普段なら本の場所を知りたいだとか、調べ物に応じた書籍の相談を受ける程度だが今日は違った。
つい最近召喚に応じた師、安倍晴明がにこにこと笑みを浮かべて妙なことを言い始めたからだ。
「時に香子や。懸想の相手に思いを伝えるには、何がいちばんだろうねえ」
晴明は自分や清少納言と同じく今風の霊衣を持ち込んでいるが、何を着用しても様になるのはさすがだと思う。そんなことより、紫式部からすれば機嫌よく笑みを浮かべる晴明の姿に西から日が昇るぐらいの違和感を覚えた。内弟子のようにそば近くに仕えたわけでもなく、僅かな手ほどきしか受けていないが生前を思えばすぐにわかる。しかも懸想ときた。
「ええと……」
紫式部的に思い当たる節はあるのだが確証がない。あえて触れずに一般的な話をするのがいいだろうと見てみぬふりをすることにした。
「ご存知かと思いますが、平安の都においては恋文でございますね。それに歌。姿を垣間見ることすら難しい時代でございましたので」
「ああ、そうですね。他の時代ではどうでしょう」
「……歌を交わす風習は廃れていきましたが文は変わらず交わされました。世を問わず、紙であろうが通信を介していようが、思いを伝えるのは言の葉であることに変わりはないかと。贈り物を添えるのも良いかと思いますが、こればかりはお相手の好みもあって、中々難しいようです」
ふむふむ、と好好爺のように頷いていた晴明は椅子に腰掛けてカウンターに肘をつく。そんな長話の構えに紫式部は内心絶望した。今度は何を言い出すのだろう……
「昔は脈なしとなれば潔く諦めるというのが一般的でしたが、今はどうですか。諦めきれずに身辺を探る愚か者は変わらずにいるのですか」
それは今の世においてストーカーと言うのです。と思いながら紫式部は聞こえの良い言葉を探した。尋ねられるまでは考えもしなかったが、昔も今も誰かを恋い慕う心に変わりはない。諦めきれずにぐずぐずと、未練がましい歌のなんと多いことか。
「それってー、俗に言うストーカーじゃね?」
ほんの僅か、思いに耽っていた隙に明るい声が静かな図書館に響く。
「でしょ? かおるっち!」
きらきらの色彩を纏い、晴明と紫式部の間に勢いよく割って入ったのは清少納言、しかも夏の霊基だ。生前顔を合わせることはなかったものの、華やかなりしサロンの中心にあり、彼女が綴った枕草子は今の世でも親しまれている。いわゆる才女だ。
それがどうなってこうなってしまったのかははっきりしない。枕草子に綴られた人柄から察するにわからないでもないのだが、陽キャパリピの権化と化した清少納言は賑やかに華やかにカルデアで日々を過ごしている。紫式部もかなりの頻度で巻き込まれる。同じ女流作家じゃーん、などと肩を叩かれるがやめてほしい。俗に言う「神」に気軽に近寄られても困る。
ね! と言わんばかりに輝く笑みを紫式部に向けた清少納言は、ところでこちらはなどと言いながら晴明を見て、固まった。
晴明も固まっている。
んんっ、と咳払いをして居住まいを正したのは清少納言だった。
「…………これはこれは安倍晴明どの。召喚に応じられたことはマスターより聞き及んでおります。私は──」
「存じておりますとも。清少納言どの。香子が随分とお世話になっているようで」
いいえそのようなことは、と平安のエリート女房に相応しい威厳を持って応じた清少納言だが、水着だ。威厳も何もない。ここにマスターか黒髭がいたら的確なツッコミをしてくれるのだろうが、折り悪く図書館には自分たちしかいない。紫式部は泣きたくなった。
師でもある安倍晴明について玉藻御前が魂が根の国色とかボロクソに評しているのはともかく、誰もが極力関わりを持たないようにしている。同時代を生きたサーヴァントたちが言及を避ける時点でアレだし、清少納言が素に戻り、あだ名を考えようともしないあたり相当だ。
二人はうふふはははと一見朗らかに笑い合っているが、紫式部としては堪ったものではない。平安の宮廷事情を煮詰めたような雰囲気を醸し出すのはやめてほしい。
「ところで、かおるっち」
「ひゃい!」
エリート女房を装うのも疲れたのか晴明と笑い合う泥沼から抜け出したかったのか。清少納言が唐突に話を振ってきた。
「なんで晴明どのとストーカーの話なんかしてんの? たしかに昔っからストーカーはいたけど」
「あー……」
話していいものか、と斜め向かいに目を向けると、晴明は眼鏡の下で明後日の方を眺めている。つまり、話しても構わないのだろう。黙っていれば眼鏡理系男子と言った趣があり、目の保養にもなるのだが……なお、現界に際して眼鏡を持ち込んだ理由は不明である。
眼鏡の謎はともかくとして晴明との会話を端的に説明すると、清少納言は諦めきれない恋心ねえ。と意味ありげに呟いて素知らぬふりをする晴明をちらりと見た。
「マンボちゃんに振られたとか?」
紫式部は喉元まで出かけた声を飲んで晴明の様子を窺う。表情に変わりはないが眉間にわずかなしわを寄せているあたり、マンボと呼ばれた者の正体について思いを巡らせているに違いない。どれだけ考えてもわからないと思うが、晴明のことだ。何かの拍子に察する可能性がある。話を終わらせるか清少納言か晴明のどちらかを図書館から出してしまわねばと紫式部は焦るが清少納言は止まらない。
ふむふむ、そっかそっか、色恋ならかおるっちの出番かあ、などと言ってにやにやと笑っているが本当にやめてほしい。だが止める術もない。おろおろとうろたえることしかできない紫式部に清少納言はとびきりの笑顔を向けた。
「かおるっち的にどう? 色恋には客観的な視点も必要じゃん? ま、最終的には本人たちの問題だけどさ」
「い、いえわたくしは……」
はす向かいのお宅が燃えているがどうにもできないうちに火の粉が盛大に降ってきた。みたいな心境で紫式部はもごもごと口ごもる。そも、晴明と道満の関係についてわかっていることと言えば、互いが互いを高く評価していることと、余人には踏み込めぬ何かがあるぐらいだ。晴明が人らしい感情を向ける相手は道満しかいないのではないだろうかと薄々思っているが所詮は根拠のない想像であり、懸想と言われて道満の姿がよぎったのも妄想でしかない。清少納言が道満の名を挙げたのも似たようなものだろう……本人たちの思惑はどうであれ、今の世において対で語られる存在であることは確かだ。
「……マンボ、というのは道満のことですか」
感情のこもっていない、事実を確認するだけの声が紫式部と清少納言に向けられる。火の粉をどう払おうかと必死に考えているうちに、隣家の家主が自宅に火をつけた。そんな心境の紫式部に対して清少納言はすました顔で言う。
「ええ。カルデアの蘆屋道満はリンボの記録を有している、と聞き及んでおります。どちらか一方を呼ぶのは不公平かと思いましたので」
「そうですか。内弟子をも気にかけて下さってありがとうございます」
意外なことに、晴明の謝辞からは感謝の片鱗がうかがえた。少なくとも悪い感情は抱いていない。清少納言の歯に衣着せぬ物言いが気に入ったのだろうか、と思いながら晴明を見た紫式部は固まってしまった。
笑みを浮かべた晴明が、口を開く。
「ついでというのもなんですが、不出来な師の面倒も見ていただけますか」
良からぬ気配を察知したらしい清少納言は立ち上がろうと腰を浮かせたが、すとんと腰をおろす。まるで見えない手に肩を押されたような動きだった。無言で助けを求める清少納言の視線に紫式部は同じく無言で首を振る。やる気を出してしまった晴明をどうこうできるのはそれこそ道満か鬼一法眼ぐらいのものだが、二人とも今日に限って図書館を訪れていない。いたとしても道満は無視するだろうし鬼一法眼は面白がって巻き込まれるタイプだ。
「これからお話することは、できればお二方の心に留めておいていただきたいのですが」
などと晴明は言うが、口外したが最後なんらかの不幸が降りかかるに決まっている。例えば、起き抜けに足がつるとか書架の整理中に本が雪崩れてくるとかデザート付きの定食が自分の前で終わってしまうとか試作品の菓子を出来心でつまみ食いしてしまいエミヤに見つかってしまうとかだ。
つらつらと一方的に語られる晴明の話を聞いていた清少納言の表情がなんとも微妙なものへと変じていく。とはいえ自分も同じような顔をしていることは容易に想像できた。道満との間に余人には踏み込めぬ何かがあるのはわかっていたが、内情を知る日が来るとは思っていなかったし知りたくもなかった。というか、そんな関係にまでなっていながら誤解が生じる理由が紫式部には全く理解できない。
「……あたしちゃん、色恋は言うほど興味ないけどさ」
深々とためいきをついた清少納言が声をひそめて呟く。
「やんごとない姫君とか宮仕えの女房相手にしてる公達でもそんな誤解、中々ないよ? 逢って無理って思ったら断るのがフツーだし。だよね?」
清少納言に話を振られた紫式部はやはり声をひそめて歯切れの悪い言葉を返した。
「はあ……まあ……そうですね……」
恋人だと思っていたらそうではなかった。という話はなくもないが、そこそこの期間、関係を続けていながら生じた認識の相違は現代でもあまり見かけないケースではある。よほど特殊な環境下……それこそ、断ることができない状況において成立する関係だと紫式部は考えた。
「一般的なお話ですが……断ることができない立場、例えば時の帝などに召された場合はありうるかと。その場合、帝が何を思って召したのか、どのようなお話をされたかで関係も変わるのではと思いますが、その……」
「あー、それはあるかも。一晩限りの関係ならともかく、後宮に入れるとなると話を通さなきゃだしねえ。ってなると、しっかり話通してなかったとか?」
「もしくは、話をしていても相手側が信じなかった。ということが考えられます……」
二人がひそひそと会話を交わす隣で晴明は変わらず涼しい顔をしていたが、恐ろしいひとことを呟いた。
「聞こえていますよ」
紫式部はそんなことだろうと思っていたが、清少納言はみっとかぴゃっとかいうような声をあげて背筋をぴんと伸ばした。あまり知られていないが、晴明は恐ろしく耳がいい。だから紫式部はできるだけ穏便な例えを挙げたのだ。
「ええと。お話は承りました。ですが、私どもに何をせよと仰せなのでしょう、晴明どの?」
狼狽した姿を取り繕うように、殊更丁寧な言葉で応じた清少納言に晴明はやはり涼しい顔で言う。
「助言などいただければと思います」
助言? と怪訝な顔をした清少納言に晴明は心のない笑顔を浮かべた。
「懸想の相手に思いを伝えるには、何がいちばんでしょうか」
──晴明は去り、紫式部と清少納言はぐったりとしていた。
「……やっぱさー。顔のいい男ってこう……なんていうの? 言わなくても伝わるだろ的な……そういうとこ、あるよね」
「否定はいたしません……」
助言といいつつ半ば説得のような形になったのは紫式部も清少納言も悪くない。誤解というか、認識の相違が生じた理由は互いに話をしていないことと、主に晴明が思いを伝えていないからというのが二人の結論だが、当の晴明がそこまでしなきゃダメなんですか? みたいな顔をするものだから手に負えない。
「そりゃさあ、あんだけ姿が良いのに浮いた噂ひとつない男が通ってくるって、女ならもしかしてちょっと特別かなって思うかもしんないけど、マンボちゃん当時は男じゃん。今は性別不明だけど。いや、男でも女でもいいけど、やっぱ家のこととか考えると後継作んなきゃとか色々あるじゃん。ってなるとどうしても男には分が悪いわけで」
「当時は妻側の家がどれだけ力を持っているかも重要でしたしね。とはいえ、晴明さまはそのようなことを考えておられなかったようですが」
「それな! そういうの話してる感じ、あんまないしさー。さっきの話も状況の説明が主だし。いやまあ晴明どのがマンボちゃんにお断りされて大層お辛いのはわかったんだけど」
カウンターに突っ伏した清少納言はもにょもにょとぼやいている。他にも地位や身分の違いなど問題は様々だが、当時も今も恋愛において重要なのは思いを伝え合うことであり、認識に齟齬が生じている時点で恋愛とは言い難い。もっとも、当時はロクでもない男性が多かった。あの道満が一定期間とはいえ関係を容認したということは晴明なりに大切にした結果ではなかろうかと妄想よりの推測を展開していた紫式部は清少納言に尋ねる。
「……諾子さまはどうして、法師さまのお名を挙げたのですか?」
「ん? そりゃまあ……あれだけ晴明晴明連呼されたら何かあるかなって。晴明どのと積極的に関わりを持ちたがる人ってマンボちゃんぐらいだし。遺恨もあるだろうけど、あたしたちが知らないことを知ってるのかなって思ってさ」
「そうでしたか……」
紫式部が思いを登場人物に託して語る一方で、清少納言は物事を観察した結果、あたしはこう思う。と明確に語る。根拠もなく人の名を軽々しく口にするような女性ではないと思っているからこそ、道満の名を挙げた理由を聞きたかった。
「かおるっちはその辺、どう思ってんの?」
なるほど、と納得しているところに思わぬ質問が飛来して紫式部はあわあわと居住まいを正す。
「……晴明さまはあまり……なんと申しますか、喜怒哀楽に乏しい方ですが、法師さまに対しては違うのかもしれないと考えたことはございます」
紫式部は自分なりに思っていたことを言葉にする。清少納言のように人を納得させるような強さはないし、思いを語るのは少し気恥ずかしいが、そんな紫式部に清少納言は微笑みを向けた。
「ふうん。あたしちゃんと似たようなこと考えてたのかー……ま、黙っていても伝わるなんて都合の良い話はない。ってわかっただけでもいいんじゃねって思うかな」
そうですね、と同意を伝えようとした紫式部は宙に浮いた文字に言葉を失う。清少納言はといえば、ぽかんと口を開いて固まっていた。
『全くもっておっしゃる通りかと。良い勉強になりました』
『うまくいかなかった時は、また相談に乗って下さい』
タイピングした結果がモニタに出力されるように、文字は滑らかに言葉を紡いで消える。
沈黙ののち、清少納言は紫式部を上目使いに見た。
「……かおるっち」
「はい」
「目の前に字幕みたいなのが出てたの、見間違いじゃないよね」
「……はい」
「緑の字が見えたよね?」
「はい……」
勢いよく上体を起こした清少納言は何もない空間を眺めて早口で捲し立てた。
「こっわ! 陰陽師、怖! てか、かおるっちなんでそんなに落ち着いてるの? もしかして慣れてるとか?」
「ええと……わりと……」
気持ちはわかる。初めて目にしたのは生前だが、恐ろしさのあまり眠れなかった。そんな状況に慣れてしまった自分に苦笑いを浮かべながら肯定した紫式部に、清少納言の労るような眼差しが注がれる。
「……なんか、かおるっちも色々苦労してんだね……」
苦労などしたことないとでも言いたげな口ぶりをほんの少し痛ましく感じた紫式部だが、清少納言が最も大切にしている思いに踏み込む権利は誰にもない。だから痛ましい思いを胸に隠して紫式部は笑った。
「晴明さまがうまくいかなかった時は、諾子さまも巻き込まれてしまいますね、多分」
「マジで!」
マジかー、マンボちゃん説得しよっかなあ……などとぼやきながら考え込む清少納言をカウンター越しに見守る紫式部は胸を撫で下ろす。
初めはどうなることかと思ったが、清少納言がいてくれて良かった。夏の霊基なのはともかく、ひとりじゃなくて本当に良かった。せめてものお礼にエミヤとタマモキャットに頼んでおいしいかき氷を作ってもらおう、と紫式部は決心した。
術で編んだ箱に出来の悪い歌を入れ、ひとがたに持たせて通路に放つ。
ふわふわとカルデアを漂うひとがたはひとつ目のひとがたを見つけると速度を早めて近づき、箱を手渡した……それぐらいは見なくてもわかる。ひとつ目のひとがたが抵抗せずに術を受け取っているあたり、術と歌は主の手元に届いているはずだ。返事はないが。
しつこくつきまとっても話がこじれるだけ。まずは好意を抱いていることを明確に伝えてはと説得されて道満が好みそうな術式に古今の歌を入れたものを贈り続けて約ひと月、清少納言には受取拒否されるよりマシじゃね? と言われるし香子にはどんなに拙くても自作の歌を入れたほうがいいと言われたので十のうちひとつには目も当てられないような歌を入れている。
術は寝ていても作れるが、歌ひとつを作るのに十日を要す、という惨憺たる有様だ。表舞台を退いた今になってこんな思いをすることになるとは……と思いながら四つめの歌を考えはじめた矢先に道満は訪れた。
「おまえが訪ねてくるなど、珍しいこともあるものだね」
所在なさげに漂っていた道満のひとがたは休眠させているひとがたを見つけたらしくデスクの隅で動きを止める。ひとがたに表情も何もないが、道満に袖にされた己の姿を見ているような気がして晴明は休眠を解いてやった。
「用を済ませたら帰ります」
休眠から醒めたひとがたのそばで嬉しげに揺れるひとつ目のひとがたとは異なり、星をあしらった黒と赤の装束を纏った道満は実にそっけない。
「立ち話もなんです。座ってはどうですか」
「結構にございます」
備え付けの椅子が一脚しかないため、ベッドに座るよう勧めてみたがにべもなく断られてしまった。
「さてご笑覧」
にんまりと笑った道満がぱちんと指を鳴らすと、装束がほどけて消えた。
「ご覧の通り、生前とは随分変わってしまいましてねえ。元から下手物ではありましたが拍車がかかってしまいました」
裸体を晒した道満が軽口を叩きながらゆるりと回る。呪の侵食が指だけでなく腕や脚にまで及んでいるのか白い肌は無惨に変色しており、女神を取り込んだ影響か陽物がない。ならば女陰でもあるのだろうかと眼鏡を外すとおどけた声が聞こえた。
「おや、眼鏡を外すほど不快でございましたか。お目汚し、失礼いたしました」
してやったりとばかりに笑う道満の、主に下腹部を注視しながら晴明は言った。
「眼鏡を外したほうが良く見えますから」
「……は?」
「もう一度回ってくれませんか。確かめたいところがあるので」
脚を開けとはさすがに言えないため控え目に要求したつもりだったが、瞬時に装束を纏った道満は白い目を晴明に向けた。
「何を言ってらっしゃるので?」
「好いた者が見よと言って脱いだのなら、誰でも見るでしょう。どのように変わったのかも知りたいですし」
何かを言いかけた道満は口を閉ざすと首を横に振りながらためいきをつく。
「……悪趣味にも程がある。もしや昔から奇形がお好みで?」
「たしかにおまえは歪んだ真珠のように美しい男でしたが、だから好きになったわけではありません」
好意を明確に伝えろと言われたので伝えたが、道満はつける薬がないとでも言いたげな視線を向けるだけだ。
「先程から薄気味悪いことをおっしゃる……毎晩届く歌もですが。生前を繰り返す必要などございませぬ。故に好みの方を誘うが良いでしょう。そう、伝えに参りました」
「だからおまえを誘ったのですが」
「ンン、話が噛み合いませんねえ」
「おまえと私の認識が異なっているのは承知しています。私の非が大きいことも。だが、それで諦めるような性格ではないのはおまえも知っているはず」
晴明をじっと見つめていた道満は二度目のためいきとともに小さな声で吐き捨てた。
「たちの悪い狐よな」
道満は聞こえるとわかっていて獣扱いをしたのだろうが、道満に狐と言われたところで晴明としては痛くも痒くもない。狐なのは本当のことだ。
「煮ても焼いても食えないのはおまえも同じでしょう」
「拙僧を同類のごとく語るのはやめていただきたい」
心外と言いたげに言葉を返した道満はそっぽをむいて部屋の隅に視線を向けた。視線の先には二体のひとがたが浮いている。楽しげに会話を交わしているようなひとがたを見守る穏やかな表情につられて、晴明は口を滑らせた。
「ひとつ、謝りたいことがある。おまえの最期だけれど、どうしても私は」
晴明の言葉を遮って、りん。と鈴が鳴った。
「拙僧、そのような話を聞くために訪れたのではございませぬ。改めて場を設けていただければと」
心のうちを隠すように、にっこりと笑った道満はひとがたを呼び戻すと晴明に背を向ける。
「待ちなさい」
自動扉の前で背を向けたまま道満が足を止めた。
思わず引き止めてはみたものの、何を言うべきかわからない。かといって黙っていれば道満は部屋を出てしまう。実に珍しいことではあるが晴明は焦り、結果としてここひと月の悩みを言葉にしてしまった。
「その。カルデアはたしかに美形揃いですが、おまえは、誰ぞに……声をかけられたりしているのですか」
それとなく周囲を観察したりプライバシーの侵害にあたらない程度に耳をそばだてたりはしたが、わかったのは道満が一部のサーヴァントから蛇蝎のごとく嫌われ警戒されていることや意外な交友関係ぐらいで、色気のある話はついぞ見かけなかった。もっとも、サーヴァントにとってカルデアは職場兼寮のようなものだ。属性に関わらず節度ある人間関係を保とうと心がけているようだから、見えないところでのやりとりは探りようがない。
「ンッフフフ。さて、どうでしょうねえ?」
背を向けたまま笑った道満は晴明に向き直ると、芝居がかった仕草で顎に手をやり首を傾げた。
「そのようなつまらぬことを気にかける暇があるのなら、歌の腕でも磨いてはいかがです? ここには平安の歌人が二人もいらっしゃるのですから」
それではお暇いたしますと笑顔のまま踵を返した道満は部屋を去り、後には椅子に座ったままの晴明と自動扉の前で名残おしげに漂うひとがたが残された。
「……おまえは仲が良さそうで、羨ましいですねえ」
思わず呟いた晴明の元に戻ったひとがたは肩のあたりで気遣うように揺れている。
「香子と清少納言どのに弟子入りでもしてみますか」
歌を寄越すなとも話しかけるなとも言われなかったことだし。と道満の言動を最大限好意的に解釈して晴明は呟いた。
「どーまーん!」
図書館の入り口に元気な少女の声が響いた。
「おっと。ジャックどのではございませんか。図書館ではお静かに、ですぞ」
背、というよりも脚のあたりに少女の突撃を受けた道満はジャックに向き直ると膝をつき、視線を合わせて穏やかに言い聞かせる。
「あっ……そうだね」
「道満さんこんにちは!」
「はい、こんにちは。良い挨拶でございますが、図書館では少ぅし、声を落とされよ。小さなジャンヌどの」
穏やかな口調でたしなめる道満と、言われた通りに小さな声で喋る少女サーヴァントたちを笑顔で見守るのは図書館の司書でもある紫式部と平安期の女流作家として名高い清少納言だ。
「ごきげんよう、おじさま」
「ンン……せめてお兄さんと呼んでいただけませぬかな、ナーサリーどの」
図書館のルールどおりに小さな声で、しかも品の良い挨拶をしたナーサリーライムへ困惑気味に言葉を返す道満の様子が面白かったのか、清少納言が吹き出した。今日は弓の霊基でいるらしい。
「今日は本をお探しですか? それとも読書会でしょうか」
カウンター越しに声をかけた紫式部にジャックとジャンヌが元気に、しかし小さな声で答えた。
「本を返しに来ました!」
「新しい本も借りたいと思って」
「そうですか……では、先日入荷したうさぎのお話はいかがでしょう。絵も美しく、素敵なお話です」
傍らに置いたブックトラックから絵本を探す紫式部にナーサリーライムが問いかける。
「ピーターラビットかしら?」
「いいえ。しろいうさぎとくろいうさぎという絵本です」
さあどうぞ、とカウンターを出た紫式部が少女サーヴァントたちに絵本を差し出した。表紙には愛らしい黒いうさぎと白いうさぎの絵が描かれており、少女たちは瞳を輝かせて絵本を覗き込んでいた。
「マンボちゃん、せっかくだし朗読してあげたらよくね?」
「は? 拙僧にございますか?」
用は済んだとばかりに立ち去ろうとしていた道満を引き止めた清少納言はにっと明るい笑顔を向ける。
「そ。だって声はめっちゃいいし抑揚効いてるし。朗読に向いてるとあたしちゃんは見るね!」
「……良いのは声だけではないと自負しているのですが、まあそれはさておき。皆さまに望まれるのであればやぶさかではございませぬなあ」
いかがなさいますか、と道満が背をかがめて少女たちに問いかけると聞きたいと可愛らしい声が答えた。それではと道満は紫式部から絵本を受け取り、ぱらぱらと内容を確認する。
「あたしちゃんも聞いていい?」
「いいよ!」
「あの……よければわたくしもご一緒したいのですが……」
カウンターに不在の札を立てつつ、紫式部がそわそわとしている。どこで読むのがいいか、今度朗読会を開きたい、絵本のコーナーを設けたいなどと口々に話す少女と女性たちを静かに見守っていた道満だが、ふいに背後を振り返った。
りん。と鈴が鳴る。
「楽しそうですね。私も加えていただけませんか」
清少納言はエリート女房とは思えぬ声を上げ、紫式部は固まり、少女たちはいいよと曇りのない返事を返し、道満は心底嫌そうな顔をした。