制御し難い化け物のような

目が合った瞬間に「彼女」はトーランドだと思った。姿形が違ってたとしても足音や仕草、表情は変えようがない。そんな細かなことまで覚えてしまうほど視線を向けていたことに気づいてすらいなかった。

子ども扱いをされて気恥ずかしくなったり、二度と会うことはないのだからと言われて胸に灰が詰まったような息苦しさを感じたり。

できることなど何もないと理解しながら無責任な言葉を並べ立て、自分本位な人間であることを自覚したり、どこに行けば会えるのかと素直に言えなかったことを後悔したり。

翳りの消えた笑みで、暇ならうちの奴らを鍛えてくれと頼られたことが嬉しかったり。

兄弟と親しげに呼ばれる彼らすら知らない一面を知っているのだと、ほのかな優越感を覚えたり。

気づいたら姿を探していたり、仕草の些細な癖まで覚えていたり……わけもなく、それでいてどうしても触れたいと思ったり。

これ以上隣にいては何を仕出かすかわからないと感じるほどの衝動は何なのか。

胸のうちを侵蝕する後ろ暗い感情に名をつけることができないまま、ムリナールは月を見ていた。

「ムリナール」

あの朝と同じように名を呼ばれて振り返ると、いつの間にか現れたトーランドが夜闇に沈む木立を背にしてムリナールを待っている。

距離を測りながら歩み寄り、一歩手前で立ち止まる。そうでもしなければ無意識に手を伸ばしてしまいそうだった。

トーランドの本心を隠すような作り笑いや目線の高さ、腕を組む姿はいつもと同じだ。だから、姿さえ戻れば正体不明の感情も消えて失せるのではと半ば祈るようにムリナールは訊ねた。

「明日はいつものトーランドか?」

問いかけにしばらく考えていたトーランドは皮肉げに答える。

「ああ。どこかの誰かさんのおかげで余計な仕事が増えたしな」

仕事を増やしたのはお前だと言わんばかりの口調と視線に、指先に柔らかな感触が蘇った。あれは頬の傷を確認しただけで、頭を撫でたのは褒めろと言われたから。

それらしい理由をつけてみたが、説明したところで納得してもらえるわけがない。誰よりもムリナール自身が納得していないのだから。

そんなことをぐずぐずと考えていると、思ったよりも近くから声がした。気配を感じさせずに距離を詰めたトーランドが意味ありげに笑っている。

「今夜はこのままでもいいぜ。お前さん次第だ」

どういうことだと訊ねるより早く、指から手の甲にかけてトーランドの指が触れた。手を重ねるでもなく、掴むこともなく、指はムリナールの手を這って指の間でぱたりと止まる。

「──来るかい? 仔馬ちゃん」

甘い声音と心のうちを覗き込むかのような視線に、誘われていると理解したとたん鼓動が跳ねた。

指を掴みさえすれば、今夜はお前ひとりのものになるとトーランドが囁いたような気がしてムリナールは顔をそむける。

どくどくと血が流れる音が頭に響く。息苦しさはかつて感じた切なげなものではなく、焦燥感と欲で満ちていた。

今、考えていることを知られたくなかった。絶対に。

視界の端に指を離したトーランドがひらひらと手を振っている姿が映る。

「あっはは、冗談だ。さっきは散々だったからな。これに懲りたら無闇におにいさんをからかうんじゃねえぞ?」

先ほどとは打って変わった陽気な声の直後に草を踏む音が聞こえる。

「良い夜を、ムリナール」

遠ざかる足音とからりとした声色にムリナールは離れてしまった指を引き留めたくて、しかしできないまま手を握った。

おいでと誘われていたら、間違いなくこの場で抱きすくめていた。それでもトーランドは冗談だと笑うのだろうか?

あれは本当に「トーランド」なのか。自分自身の判断すら疑ってムリナールは考える。

仕草や表情の癖が同じだからと言って、内面も同じだとは限らない。同じだというのなら、冗談であったとしても誘いをかける程度には同性である「私」を憎からず思っているということになりはしないか。

……誰にも語ることができない疑問の答えなど、都合よく形を変えるものだ。現に今も望む答えを導き出そうとしている。

ただひとつ確実なのは、持て余した劣情のおかげで最悪の夜を過ごすことだけ。

ため息をついたムリナールはようやく理解した。自分本位に乞い求め、曝け出すのに躊躇を覚えるほど醜く──制御し難い化け物のような衝動と劣情。

それを恋と呼ぶのだと。