過日
木立を抜けた先にはささやかな空間が広がっており、夜になれば焚き火を囲んだ人々で賑やかだった。
他愛もない話題で盛り上がり、些細な諍いを仲裁に入る者もいればどちらが勝つかと賭けを始める者もいる。かと思えば黙々と道具の手入れをする者がいたりもした。
傍観するばかりだったが、彼らは特に気にした様子もなく話に加わるよう強制もしなかった。恋文の代筆を頼まれたこともあったが、その後の顛末は聞けずじまいだ。
今は……移動都市の航路になってしまったのか、木々に埋もれ獣が行き交う林に戻ってしまったのか。それとも、あの頃と同じように生きようと足掻く人々が集っているのか。
移動都市に戻ったムリナールに知る術はない。
冷たい風が吹く夜だった。
暗い木立を抜けた先には賑やかな人々も暖かな焚き火もなく、小さなランプの灯りを前にトーランドだけが座っていた。
日が暮れる頃に戻れば温かな食事にありつけただろうし、皆が騒いでいる時間帯であれば冷めた食事と引き換えに土産話はないのかと声をかけてくる者もいたはずだ。
だが、日付が変わる時間まで騒いでいる者はいない。トーランドが率いる「兄弟」達は見た目によらず統制の取れた集団でもあった。
そのトーランドが一人、ランプの灯りを眺めている光景はかなり珍しい。街に出るならついでにと頼まれた買い物があるがそれが待ち遠しいとも思えない。
帰りが遅いと気にかけているわけはないだろうが、そうだったら嬉しいとムリナールはほんの少しだけ思った。
足音に気づいたのか、顔を上げたトーランドは遅かったなと声をかけてムリナールに笑顔を向ける。
「また人助けでもしてたのか?」
笑みにつられて隣に座ると、トーランドが茶化したように言った。遠からずとも当たらずといったところだが、トラブルに巻き込まれた経緯を説明したところで物好きな奴めと揶揄されることはわかっていたのでそんなところだと受け流すに留める。
小さいと思っていたランプの灯りは思ったよりも明るく、そばに置いた二つのグラスを透かした光が地面に美しい模様を描いていた。
ここで食器といえば乱雑に扱うことが前提の軽く耐久性に優れたものばかりだから、グラスというだけで目を惹いた。
トーランドは傍に置いたスキットルを傾けるとグラスに中身を注ぐ……琥珀色の酒が揺れて光も揺れる。
トーランドはグラスに口をつけると一口飲んで、美味いなと呟いた。
「一人で飲むなど珍しいな」
勝手なイメージではあるが、トーランドは賑やかな酒を好むと思っていた。何も考えずその日暮らしをしているわけではないだろうが、暗い顔で埒も開かないことばかりを考えていても何が変わるわけでもない。それなら楽しく賑やかにやっていこうと考えているのではと思っていたから少し意外だった。
「お前が知らないだけで、この時間は一人で飲んでるかもしれねえぜ? いい酒はあっという間に飲み尽くされちまうからな」
帰りが遅くなったおかげで珍しいもんが見れて良かったなと笑うトーランドはまた、酒を飲む。
もう一つのグラスにも酒が注がれていたが、手に取る様子もなければムリナールに勧めもしない。ずいぶん前の話だが、酒は飲まない煙草も吸わない、女の影もないってのは単にお堅いのか騎士という生き物が禁欲的なのかと聞かれてどれも嗜まないだけだと答えたのを聞いていたのか、トーランドに酒を勧められたことは一度もない。
自分から手を伸ばすような行儀の悪い真似はしないが、手付かずのグラスの先に「誰」がいるのかは気になった。
おそらくはここにいない、顔も声も知らない誰か。長雨が続く蒸し暑い日に似た不快感にムリナールは内心ため息をついた。小説で描かれる嫉妬とかいうやつだろう。
そんな気分を振り払うように、ムリナールは小さな紙袋を鞄から取り出す。
「これで良かったか」
手紙の返事を出しに行くと話した時、ついでに買ってほしいと頼まれたのは手帳だった。
「買い物を頼んどいて文句をつけるような真似はしねえよ。そもそも、手帳の良し悪しなんぞわかんねえし」
受け取った袋を傾けたトーランドは滑り出たコインをちゃらちゃらと弄んでポケットにしまう。
「余った金で菓子でも買えと言っただろ? お使いには駄賃が付き物だからな」
トーランドが年上なのはわかっているが、お使いの帰りに菓子を買い食いするほど歳が離れているわけではないはずだ、多分。
「……駄賃をねだるような歳ではない」
菓子を買えと言われた時も同じようなやり取りをした覚えがあるが、子ども扱いをされるたびに戦闘技術や座学の知識を頼るように一人前の大人として扱ってくれていいのにとムリナールは思う。
不満げなムリナールに対して、トーランドは笑みを浮かべていた。
「年相応の扱いってのは贅沢なもんだぜ? 余裕がねえとできねえからな」
子ども扱いされてるうちが花だから、黙って甘えとけばいいのさと呟くトーランドの視線はムリナールではなく置いたままのグラスに注がれている。
「……子ども扱いされて文句言う奴は二種類いてな。何も考えてねえヤツとお前みたいに賢いヤツだ」
トーランドはムリナールに視線を向けた。だが、ムリナールにはトーランドが自分ではない誰かを見ているような気がしてならない。
「あんまり賢いと色んなものを天秤にかけて考えちまう。例えば──被害を最小限にするために、どこでどうやって誰が足止めをするか」
そうやって死んじまったヤツがいてなあ。
ぽつりと呟いたトーランドは目を細める。
「先が見える分、生きるのに嫌気が差したのかもしれねえが……もう少し長生きすれば、ちょっとは楽しく騒げたっていうのにな」
不意の夜風に遮られたように、トーランドは言葉を切って酒を一口飲む。
もう少し。がどれだけの長さなのか、どれぐらい昔の話なのか。トーランドは触れようとしなかった。わかるのは子ども扱いされるような若者が命を投げ出した事実を思い出として語れるだけの時間が過ぎていることだけだ。
死者を悼む気持ちはわかる。こんな時に何を言っても意味がないということも。
たまたま居合わせただけの自分に何を言うこともできないし、トーランドも求めていないだろう。
冬の冷たさを予感させる風が吹く中、ムリナールは黙って目を伏せた。
ランプの灯りが揺らめくと琥珀色の光も揺れて、乾いた地面に美しい模様を描く。
それを無言で見つめるムリナールにトーランドが問いかけた。
「今日は何日だ?」
どうしてそんな当たり前の事を尋ねるのかと不思議に思ったが、それぐらいは即答できる。ムリナールは時間を確認し、日付が変わった事を確認してトーランドの質問に答えた。
トーランドはへえ、などと呟きつつ、いつのまにか手にしていた手帳のカレンダーに付属のペンで印をつけている。
「何のつもりだ」
カレンダーに印をつけるなら予定や記念日と相場が決まっており、何でもない日に印をつけるとは思えない。答えはしたものの、ムリナールにはトーランドが何をしたいのかわからなかった。
トーランドはこんなところで生きてると日付なんて必要ねえからなあ。といつもの調子で笑う。
「俺らには今日の寝床と明日の飯があれば十分。と言いたいところだが、死んだ日ぐらいはあってもいいかと思ってな」
何でもないことのように呟いたトーランドは手帳を置いたかわりに煙草の箱を手にした。
煙草を咥えると慣れた仕草で火をつけて深く吸う。
あたりにいがらっぽい香りが漂った。
「アイツが死んだのは今日みたいに冷たい風が吹く日だったが、日付は誰も知らねえ」
トーランドが吐いた煙は夜のしじまに溶けていく。トーランドの昔話は、寝食を共にしたとしても生きる場所が違うのだと思い知らされるものばかりだった。
「生まれた日はともかく、死んだ日がわからねえのはあんまりだろ? 歓迎されて生まれたわけじゃねえ俺らだからこそ、死を悼んでやりたくてなあ」
アイツを覚えてる兄弟達もそう思ってるぜ? と陽気に言ってトーランドは話を終える。歓迎されていないとは言うが、トーランドと兄弟達なら生まれた日がわかっていれば酒を飲む理由が増えたとかなんとか言って賑やかに祝うだろう。
生まれたことを祝い、在りし日を悼む。それらの感情を共有できるなら種族や姿の違いなど些細なものではないか。
それとも、その程度では埋めることができないほどの断絶が存在するのか。
今のムリナールにはわからない。
黙っているムリナールの隣でトーランドは煙を吐くと、短くなった煙草を揉み消してグラスを一気に傾けた。
「そんな顔すんなよ、酒が不味くなる」
トーランドは困ったように呟くとしおれたムリナールの耳を軽くつつく。
手はすぐに離れたが、急に触られた驚きで勢いよく立った耳にクランタの耳ってのはよく動くなあ、と楽しげに笑うトーランドが遠い過去から隣に戻ってきたような気してムリナールも笑う。
「……煙草を吸うんだな」
かといって何を話すべきなのかもわからず、場を繋ぐようにどうでも良いことを口走ったムリナールにトーランドは二本目の煙草に火をつけると苦笑いを浮かべた。
「仕事に差し支えるからやめたんだが、たまに吸いたくなる時があってな」
そうなのか。とあたりさわりのない答えを返したムリナールはポケットを探るトーランドを眺めていた。
二本目の煙草は手をつけていないグラスの前でじわじわと短くなっていく。
酒も煙草も今はいない「兄弟」のためだと察してようやく、部外者がここにいるべきではないとムリナールは悟った。
しかし、腰を上げようとしたムリナールを引き止めるようにトーランドがカラフルな包み紙のキャンディを差し出した。煙草を吸いたくなったら食べているものだという。
口に入れると強烈なミントの清涼感が何もかもを打ち消してしまう。
「眠気覚ましにはもってこいの味だな……」
「まあな。気分転換にはなるぜ」
爽やかを通り越して口の中が痛い。子どもに与えたら泣き出すのではないだろうか。そんなことを思いながらキャンディを舐めていると、今度は買ったばかりの手帳が差し出された。
「今度は何だ」
意図が分からずに困惑するムリナールに、トーランドはいつもの調子で答える。
「お前の死に目には立ち会えねえだろうから、生まれた日を覚えといてやるよ。いつだ?」
思わぬ提案にまばたきをしたムリナールは手帳のカレンダーに印をつけてトーランドに返す。
冬生まれかい、とカレンダーを眺めるトーランドにそうだと短く返してムリナールは今度こそ立ち上がった。
「つまんねえ話に付き合わせて悪かったな」
トーランドが言うようにつまらない話だろうか。
ムリナールはほんの少し考えて、いいやと答えるとその場を離れた。
歓迎されて生まれたとは思えないと言われてしまっては、生まれた日を聞けるはずがない。そしてトーランドが言う通り、死に目に立ち会うこともないのだろう。
トーランドから離れるほどにまとわりついていた煙草の匂いは残りわずかなキャンディの香りに塗りつぶされていく。
爽やかで、ほろ苦く、痛い。
誕生日の前日にカードが届くようになったのは、大騎士領に戻ってからのことだ。
差出人のサインがない封筒も、お決まりの文言が印刷されたカードを燃やすのも毎年のこと。
白い紙片がゆっくりと灰になり、煙とともに漂う香りも変わらない。冷たい風が吹く季節には似合わない、仄かなミントの香り。
どうして誕生日の前日に印をつけたのか、今となってはわからない。何を考えていたのかすら覚えていない。表情豊かな横顔や美しく揺れる琥珀色の光、夜のしじまに消える煙を思い出すだけだ。
細く開けた窓へと最後の煙が流れていくのを見届けて、ムリナールは窓を閉めた。