mellow

珍しく平穏な一日が終わろうとしている。日が暮れたら呑みにでも出るかと空を眺めていたトーランドは歩哨から思わぬ報告を受けた。

曰く──ムリナール・ニアールが近づいている。

どうします、誰何しますか。判断を求められたトーランドは放っておけと指示を出した。

用がないなら素通りするだろうし、立ち寄るなら用がある。用があるなら俺にだろうよ。声をかけられたら案内してやってくれ。

そう付け加えながらムリナールを知らない者が大半を占めているのだと改めて実感したトーランドは数少ない古株の顔を思い浮かべた。

昔からの「兄弟」達はムリナールに様々な感情を抱いているが、かつての姿も知っている。今更何の用だと思いはしても警戒はしない。トラップを仕掛ける奴がいる可能性は否定できないが。

暮れゆく空を飛ぶ羽獣を眺めながら風に吹かれていたトーランドの元に聞き慣れた足音が届く。やれやれ呑みに行くのはまた今度だな、とぼやいてしばらく。姿を見せたのは旅装姿のムリナールと顔面蒼白の歩哨だった。

「あー……うちの若いのが何かしたか?」

「……いいや、何も」

トーランドは二人の様子に明らかな嘘の気配を察したが、掘り返しても時間が過ぎていくだけだ。ここは歩哨を返してムリナールの話を聞くことにした。

「見たところ、随分と駆けてきたようだが座って話すかい? 水か白湯なら出せるが」

ムリナールのコートとブーツは砂埃で汚れており、珍しいことに髪も乱れている。トーランドとしては気を遣ったつもりだが、ムリナールは通りすがりに立ち寄っただけだと断って鞄から大きめの包みを取り出した。

「ここには女、子どももいるだろう」

「まあな。いないヤツはいないって状況だ」

「これを分けてやってくれ」

包みは薄紙で幾重にも包まれている。大きさの割に軽い包みを受け取ったトーランドはあからさまな愛想笑いをムリナールに向ける。

「ありがたく頂いとくぜ。親切な小父さんがくれたって触れ回っといてやるから気軽に遊びに来てくれや──ところで、何だこれ?」

ここで包みを破けば全てぶちまけてしまいそうな気がする。光に透かしてみようにも、空には薄闇が迫っていた。がさがさと音を立てる包みをもて遊ぶトーランドにムリナールはなぜかため息をついた。

「……菓子だ」

「菓子ぃ?」

何もかもにくたびれて不機嫌。そんな男がわざわざ女子供のために菓子を調達するなど考えられない。トーランドは驚きと疑いをないまぜにした呟きを漏らし、当の本人も不本意と言いたげな表情を浮かべている。それぐらい予想外の出来事だった。

「雪境でよく食べられていると聞いた。用はこれだけだ」

ムリナールは淡々と告げて踵を返す。何をしてきたのかは知らないが、村にわざわざ立ち寄った理由が菓子というのは解せない。というか、この様子からするにつついたら面白い話が出てくるような気がする。そう判断したトーランドはムリナールの鞄に手をかけた。

「まあ待て。村を出るまで送ってやるよ──待てって言ってるだろ?」

サルカズの成人男性を引きずったまま立ち去ろうとする勢いのムリナールを引き止めて、トーランドは背後に声をかけた。

間を空けずに姿を見せた女性に菓子の包みを渡し、しばらく空けるぜと断るとムリナールの背中を押すように叩いて歩き出す。

「雪境の菓子なんて滅多にねえよな。旅行か?」

早速、トーランドはムリナールに水を向けた。まさか兄夫妻を探すためにこの大地全てを巡るつもりかと疑ったが、答えは実に単純だった。

「外勤だ。保全業務に派遣されていた」

聞き覚えのある言葉に記憶を探ったトーランドは少し前に村を訪れた若者達の話を思い出した。ムリナールの新しい職場は本当に製薬会社なのかと思ったこともあって記憶に新しい。確か、保全駐在とか言っていたが……

「ああ、レッドパインの若い衆から聞いてるぜ? 他所でもあれこれやってるらしいな……ってことは雪境に派遣されたのか」

まばらに建つ家屋の窓からは暖かな光が漏れ、ごく平凡な村の光景といったところだ。しかし周囲には監視の目が網のように張り巡らされている。常に見られながら歩いているとムリナールもわかっているはずだが、気にする素振りはない。

「いや。雪境出身のオペレーターと同じチームになっただけだ。面倒見の良い女性がいてな」

暗くなる道を歩きながらムリナールは面倒見の良いオペレーターの話を続けた。年若い娘だがチームの皆を気にかけており、おかげで終始和やかな雰囲気で仕事を終えたらしい。

その辺で裂獣を狩るだけでも揉め事が起こるというのに、数日に渡る作戦で和やかな雰囲気を保つというのは中々のものだ。

「へえ。若いのに大したモンだ。菓子はその娘にもらったって訳か?」

なので、トーランドは素直に賞賛した。ついでに菓子の出所を尋ねるとムリナールはなぜか歯切れの悪い口調で認める。

「……まあ、そうだ」

そんな様子に今回の面白いポイントはここと察したトーランドはムリナールの脇腹をひじでつついて話を促した。

しばらく黙っていたムリナールだが、渋々と言った様子で口を開く。話を促した立場上、真面目な顔で聞いていたトーランドだったが次第に笑いが込み上げてきた。

ムリナール・ニアールに「あなたは大きいんだからたくさん食べないと駄目よ」などと言いながら菓子を一掴み手渡す娘の話が面白くないわけがない。しかも、食事の時も同じことを言われたというから徹底している。

では、あの菓子の包みは作戦が終わるたびに手渡されたものかと聞くと、ムリナールがロドス本艦に立ち寄らずカジミエーシュに戻ると聞きつけた娘が持参した菓子を全て包んで押し付けてきたものらしい。つまり、ムリナールは渡された菓子を毎回律儀に完食していたことになる。

「確かにお前さんは大きいからな……たくさん食べなきゃ駄目だよな…………」

笑いをこらえながら言ってみたものの、黙々と菓子を食べるムリナールの姿を想像したらもう駄目だった。くつくつと声を殺して笑うトーランドの隣でムリナールは明らかに不機嫌な気配を漂わせている。時折、冷ややかな視線を向けられるが面白いものは面白いから仕方がない。

そのまま、会話らしい会話もせず歩き続けて監視の目が途切れたところでムリナールは足を止めた。

「ここまででいい」

夜に沈む荒野の先に都市の光が小さく見える。星に似た瞬きを背に立つムリナールの姿に目を細めたトーランドは気になっていたことを尋ねた。

「そうかい? ところで村に入る時、何があった」

ムリナールは気にしてもいないようだが、コミュニティを取りまとめる身としては聞いておきたかった。あの新入りが誰彼構わず手を出すようなら配置換えをするか、一から鍛え直さなければならない。

「特に何も。強いて言えば矢の飛来元に道案内を頼んだだけだ」

何気ない言葉にトーランドは額に手を当てて空を仰いだ。矢を射た途端に狙撃対象が目の前に出現するなど考えたくもない。ムリナールが反撃しなかったのは優しさなのか、波風を立てるのを嫌ったのかは意見が分かれるところだろう。

深々とため息をついたトーランドは何をどう言うか悩んで、素直な心情を吐露した。

「……ここにきて間もない奴だから、気を張ってたんだろうよ」

「人員の配置は適性と経験を勘案して行うべきだ。被害が生じた時、経験不足など言い訳にもならないとわかっているだろう」

情け容赦ないとはこのことだ。苦笑いを浮かべたトーランドが悪かったなと詫びるとムリナールは短く言葉を返した。

「的を外した狙撃に詫びを入れる必要がどこにある?」

突き放すような言葉だが、気にするなと言っているのはわかる。おそらく新入りにも同じ態度で接したのだろうが、あの顔色からして生きた心地がしなかったに違いない。

それにしても、嫌われている上に殺してやろうと思っている奴らが集う場所をわざわざ訪れるなど、ムリナールは何を考えているのか。意に介していないと言うのは置いておいて、何か頼み事でもあるのかと思っていたがそんな気配は微塵も感じられない。

考えを巡らせていたトーランドはくたびれた大人になってしまったムリナールの昔を思い出した。若い頃も似たり寄ったりだが素直だったし、可愛げもあった。

ただ──弱音を吐くのが恐ろしく下手だった。

「不手際には違いねえ。狙うなら殺す気でやらなきゃな」

トーランドは笑みを浮かべながらポケットからキャンディを掴み出した。主に賑やかな子どもたちの口をふさぐために持ち歩いているが、大人に配ることもある。

「何のつもりだ」

差し出した手のひらに乗せたキャンディをムリナールが怪訝な顔で眺めている。

「疲れてるように見えたからさ。これなら走りながら食えるだろ?」

深々とため息をついたムリナールはキャンディを手に取ると薄紙を剥いて口に放り込んだ。がりがりと硬いものを噛み砕く音が止むと、少し間を開けて静かな呟きが夜に落ちる。

「……お前には言われたくない」

思わぬ言葉にトーランドは少し驚いて、そして笑った。

「心配してくれるのかい?」

ムリナールは無言で手を伸ばすとトーランドの手首を掴んで引き寄せる。はずみでキャンディがぱらぱらと落ちた。

砂ぼこりのにおいが微かに漂い、金色の髪が頬をくすぐる。別れの挨拶には程遠い力で抱きすくめられて、らしくねえなあと呟いたトーランドは肩口に顔を埋めたムリナールの背中を軽く叩いた。

「ここがベッドの中なら、嫌というほど甘やかしてやったんだが」

もう一度、背中を叩いたトーランドは力を込めてムリナールを引きはがす。

「気をつけて帰りな。夜の闇に足を取られないようにな」

あっさりと体を引いたムリナールの表情に変化はない。先程の抱擁は夢か幻だったのかと思うほどだ。

無言で踵を返したムリナールを見送って、トーランドも来た道を戻る。暗い道の先には小さな灯りが揺れて、人が待っていることを示していた。

「大層なお出迎えじゃねえか。日が暮れたってのに揉め事か?」

村の境界で待ち構えていたのは今や古株と呼ばれる面々だ。恐らく、真っ青な顔の新入りにあれこれ聞き出してやってきたのだろう。

彼らは話を纏めるということをせずに、言いたいことを口々に訴える。おかげでトーランドは複数人の話を同時に聞くことに慣れてしまった。

夜空の下で好き勝手主張する彼らの話を聞いていると、昔と何も変わらない気がしてくる。そばにいる顔馴染みが昔と変わらず賑やかである限りはやっていけるだろう……だが、どこまでやれるかはわからない。

「お前らを失望させたからといって、通りすがりに立ち寄る権利まで失ったわけじゃねえだろうが。それになあ、文句があるなら騎士様に直接言えよ、直接」

主にムリナールへの文句を訴える古株達を一蹴してトーランドは境界を越えて村へと──根城へと戻る。

俺とこいつらが減らず口を叩く余裕があるうちに戻ってほしいものだ。そんなことを考えてトーランドは荒野を振り返った。

お前は良くやっていると伝えてやれる機会が、再び訪れるとは限らないのだから。