角を削ったサルカズはクランタの心がわからない
カジミエーシュの非政府組織が名指しで面会を申し入れしていると連絡を受けたムリナールは書類を精査する手を止めて、長ったらしい名称を脳内で反芻した。
カジミエーシュ農村紛争調停協会。
企業に勤めていた頃にも、荒野をさすらっていた頃にも関わりを持ったことはないと断言していい。だが、カジミエーシュの非政府組織がロドス本艦を訪れて「ムリナール・ニアール」を名指ししたという事実は看過できない。
「ニアール」に何事か申し入れしたいのであれば大騎士領にマーガレットがいる。今は近隣に停泊しているとはいえ各国を巡航しているロドス本艦を訪れ、カジミエーシュに縁あるオペレーターも多く在籍している中でムリナールを名指ししたということはつまり、ムリナール・ニアールが本艦に滞在中であるという事実を把握しているということでもある。
本艦に常駐しているわけではないというのに滞在中であるという情報をどのようにして入手したのか。ただでさえ火種の多いロドスに、カジミエーシュの勢力争いを持ち込むのは不本意だった。
「……仕事がひと段落したら伺うと伝えて下さい」
そう答えたムリナールは名刺を受け取って一瞥する。
見覚えのない組織名にカジミエーシュではありふれた名。女性とだけ認識して次の書類を手にしたムリナールは念のため「ドクター」に話を通すべきか考えて、ロドスのセキュリティを信頼することにした。
応接室には誰もいなかったが、ムリナールは特に動じることもなくソファのそばに立って来客を待った。
艦内を見学したいと申し出る来客が一定数いると聞いてはいたが、来客はムリナールに艦内を案内してほしいと要望していたらしい。見ず知らずの相手にそこまでする義理はないので仕事を口実に断りを入れたものの、待たせるのも気が引けたので、可能であればその間に案内をしてもらいたいと頼んでおいた。
依頼通り、来客は見学ツアーに出ているようだ。アポイントメントがないとはいえ待たせたのはこちらなのだしと窓から見える荒野を眺めていると、開け放った扉から複数の足音と賑やかな会話を耳が拾った。次第に近づくそれらの物音に、ムリナールは眉を寄せると深いため息をつく。
カジミエーシュ農村紛争調停協会と関わりを持ったことがないのは確かだが、そこに一枚噛んでいる非合法組織となら過去に関わりがあった。正確に言えばそのうちの一人と関わっている。
ため息が終わるか終わらないかのうちに二人の女性が姿を現した。
二人は随分打ち解けた様子でカジミエーシュで流行のスイーツについて意見を交わしている。普段なら気にも留めない会話だ──来客が、褐色の肌に黒い髪と青い瞳でさえなければ。
平静を装うムリナールをよそに来客は職員へ丁寧な礼を述べ、ムリナールには前触れもなく訪れた無礼を詫びた。
職員が去り、扉が閉まっても微動だにしないムリナールに来客は座って頂かなくては話もできませんと言葉をかけてソファに座り、悪びれもせずに脚を組む。
それでも立ったままのムリナールを品定めでもするように眺めていた来客は困ったように笑った。
「話を聞く気はないという意思表示でしょうか、騎士様?」
職員が去った今、ムリナールは不機嫌を隠すことなく表情に表してソファでくつろぐ来客に視線を向けている。
「聞かないとは言っていない。どんなロクでもない話を持ってきた」
ムリナールの冷ややかな言葉に片眉を上げた来客はわざとらしいため息をついて向かいのソファを指差した。
「話も聞かずにその言い草はどうかと思うぜ?」
先程までの丁重な態度はどこへやら、ぞんざいな口調と仕草で言外に座れと示しつつ来客は言葉を続ける。
「今日はカジミエーシュ農村紛争調停協会の名代だ。でなきゃこんな格好で来ねえし、面倒事ならドクターに直で話通すに決まってんだろ」
ムリナールは表情ひとつ変えずに来客の主張を聞いていたが、礼儀のかけらもない仕草でソファに座ると来客をにらみつけた。
「お前がドクターと懇意にしているとは初耳だな」
この容姿が冷たい印象を与えることは承知している。表情と口調で威圧感を加えることだってできる。そして、そういったものを総動員しても動じない者がいることも知っていた。目の前で愛想良く笑っているのはそのうちの一人だ。
「話を通す必要があんのか? お前とドクターが抜き差しならない関係だって言うんなら今からでも筋は通すが……その辺どうなんだよ騎士様、お前も身を固めていい頃だろ?」
むしろ遅いぐらいだ。そんなことを呟いて目を細める来客に、わざと言っているのかと問い詰めたくなるのを抑えてムリナールは膝に置いた手を組んだ。
「……そんな話をするためにカジミエーシュ農村紛争調停協会とやらの名を借りてきたわけではないだろう。要件はなんだ」
トーランド。そう名を呼ぶと来客は驚いたように青い瞳を瞬かせた。だが、ムリナールは目の前の「男」が浮かべる表情が感情や心境の現れだとは思っていない。必要とあらば性別すら偽るのがトーランド・キャッシュという男だとムリナールはよく知っていた。
「せっかく名刺まで作ってもらったってのに。話を合わせる気遣いとかねえのかよ」
トーランドはわざとらしくため息をつくが、話を合わせてほしければ口調ぐらい徹底するべきだ。ムリナールはそんなことを考えながら相手の出方を待った。
冷気のように広がる沈黙を嫌ったのか、トーランドが書類の束をテーブルに置く。ばさりと乾いた音を契機に身を乗り出したトーランドは表情を改めた。
「真面目な話といこうか、ムリナール」
書類に目を通しつつ聞いた話は確かに真面目な内容だった。平原に定住し田畑を耕して生きる者達は様々な脅威に晒されている。農地の買収や作物の買い叩き、傭兵と称した盗賊に天災……カジミエーシュ農村紛争調停協会は移動都市外、特に農村部で生きる人々の身を守るために発足したものだという。今回、医療環境を整えたいという声を受けてロドスを訪れたトーランドはわずかに深刻な顔をして、お前はわかってるだろうからこれ以上は言わねえがと呟いて話を終えた。
「……企業は利益を見込めない事業に手を出さないものだ。判断は私ではなく、提示された条件を鑑みて経営陣が下す。もちろん、私の存在は意味を為さない。それで良ければ、承ろう」
目を通し終えた書類を整えながらムリナールが答えるとトーランドは相好を崩す。
「わかってねえなあ。わかってるヤツから話を通してもらうことに意味があるんだよ」
見慣れた人懐っこい笑みにムリナールは昔からの疑問を改めて反芻した。
──他の人間は女の姿でいるトーランドの笑みにどんな印象を抱くのか。
ムリナールにとって姿形や性別が変わろうがトーランドはトーランドでしかない。腕に抱いてみても彼の兄弟が言うように「いつものトーランド」が脳裏をよぎって萎えることもなく、トーランドを抱いているのなら当然と感じただけだ。
感情の動きとして恋が落ちるものであればいずれ冷める。流行病のようなもので熱が下がれば何もかも終わるだろうと考えていたが、残ったのは後遺症ともいうべき執着だ。ならば、角を削ったサルカズに向ける感情を死ぬまで抱えるしかないと結論づけて今に至る。
「話が済んだのなら帰れ」
それはそれとして、職場に頭痛の種が居座るのはやりづらい。どうせ忙しくしているのだろうし、仕事が早く終わったのならゆっくり休めと言いたいところだが、そのまま口にすればトーランドはわざと額面通りに受け取って数日滞在するなどと言いかねない。そんな諸々を考えた結果の言葉にトーランドはひどく傷ついた顔をした。
「冷てえなあ。遠路はるばるお前を頼ってきたってのに……」
しょんぼりとした様子で力なく呟くトーランドだが、この程度で傷つくような男ではない。話の流れに相応しい口調と表情を装っているだけだとムリナールにはわかっていた。
「……ロドスがカジミエーシュ辺境に停泊しているとはいえ、お前の拠点なら大騎士領の方が幾らか近いだろう。ロドスの事務所ならなお近い。なぜ、本艦を選んだ」
案の定、新たな問いかけにトーランドは表情をがらりと変えた。
「確かに、移動距離はここが一番遠いだろうな」
だが話を通すなら最短距離だと言い切ってトーランドはふてぶてしく笑う。
「どうせ走るなら最短距離を選ぶのは当然だろ? しかも我らがニアールが滞在中だ。お前なら話を通してくれると信じてんだよ、俺は」
……ロドスにおける「ニアール」とは盾を手にロドスを守ったマーガレットであり、たまにやってきて書類仕事に手を出すクランタではない。レッドパインの面々と繋がりを持ち、事情をある程度把握していると思われるトーランドならそれぐらいわかっていそうなものだがと考えたムリナールは幾つかの事実に思い至る。
なぜムリナール・ニアールが本艦に滞在中だと知っていたのか。それは名刺を手にした時に感じた疑問でもあった。そこまでの情報を入手している相手に油断はできないと……だが、各地に密偵を放っているトーランドならわからないでもない。レッドパインの若者たちも知らず知らずのうちに「密偵」としての働きをしているのだろう。
ため息ばかりつくのもよろしくないとわかっているが、トーランドを相手にしているとため息の数は驚くほど増えていく。
短くため息をついたムリナールはトーランドをにらみつけた。
「私の動向を探ったところで有益な情報は何もないぞ」
棘のある言葉を意に介した風もなく、トーランドはほんの少しだけ首を傾げた。
「いい年してふらふらしてる知人を案じていると言ってくれよ。ここまで走ったのは、お前がどんなところで働いてるのか見たかったのもあるんだぜ?」
そんな言葉にムリナールはトーランドからわずかに視線をそらす。
時が過ぎるごとに身の上を案じてくれる人は少なくなっていった。いつの間にか責められることが多くなり、案じているからこその苦言すらも聞き流すことに慣れてしまった今はトーランドの言葉がほんの少しだけ眩しい。
「それにしても一企業が移動母艦を所有してるってのは面白いよなあ。お前を待ってる間にぐるっと回ってきたが、ほんの一部だって言うじゃねえか。オペレーターの身内なら宿舎に滞在できるって聞いたが、どうよムリナール、今から俺を身内ってことに……」
そんなムリナールの様子を気にかけることもなく楽しげにまくしたてるトーランドをそっけないひとことが遮った。
「事務所に駐在するオペレーターに宿舎の割り当てはない」
それでもめげずにトーランドは話を続ける。
「今のお前は部屋をもらって各地を巡るのもいいと思うがな。ロドス・アイランドって製薬会社はそこらに転がってる営利目的の企業とは違って崇高な理想を掲げてるようだし?」
理想。そんな言葉にムリナールは思いを馳せた。
ロドスの人々は理想の輝きに惹きつけられた羽虫のようなものだ。その身を空虚な理想に投じて燃え尽きていく。かつて目の前で死んでいった人々のように。
「──そこまでの契約ではない」
抑えた口調に滲むものを察したのか、トーランドは口を閉ざして何かを考えている。静かになった応接室には換気の音だけが低く響いた。
同じ燃え尽きるのであれば場所ぐらいは選びたい。その時に迎え入れてくれる場所が残っていれば、の話だが。
「……契約は更新するたびに見直すものだろ? それに、腰を落ち着ければ添い遂げたい相手の一人や二人は見つかるかもしれねえ」
しんみりとした気分で物思いに耽っていたムリナールは思わぬ方向から降って湧いた話題に視線を上げた。
トーランドはにやにやと笑いながら、ロドスには綺麗で気立の良いお嬢さんがたくさんいるようだしな。などと喋り続けている。
察しの良いトーランドのことだ、これ以上触れない方がいいと判断して話を変えたのだろうが、先程までの暗い話を継続した方がまだいい。
伴侶だとか後継だとかの話はしたくもなければ考える気にもなれない要因の一つがお前だと言ってやろうかと考えたが、はぐらかされて無かったことにされるだけだ。忌々しく思いはしたものの、ムリナールは黙ってトーランドをにらみつけるに留める。
療養庭園のお嬢さん方は良い香りがして可憐だ、医療室にいた緑髪の姐さんは気が強そうで良さそうだと楽しげに語るトーランドに耐えかねたムリナールはついに口を挟んだ。
「お前に伴侶の心配をされる義理はない。それとも、見合いでもさせろとどこぞの筋から依頼されたか」
うんざりした様子のムリナールにトーランドはまさか、と陽気に答えた。
「幾ら金を積まれても、そんな厄介で割に合わない依頼は受けねえよ」
ただ、お前の子どもが見たいだけだと楽しげに言い放ったトーランドはありもしない未来を語る。
「たまに遊んでくれて無口で怖い父親の昔話をしてくれる謎のお兄さんってのを一度、やってみたくてな」
伴侶はともかく、子どもは飛躍しすぎだ。突っ込みを入れたくなるのをこらえてムリナールは当たり障りのない部分を指摘した。
「誰がお兄さんだと?」
「俺に決まってんだろ。お前の武勇伝なら幾らでもあるから話のネタには事欠かねえ」
にこにこと笑うトーランドはその日が来ることを本気で楽しみにしているようだが、そんな日は未来永劫来ない。もし、可能性があるとしたら──
ため息をつく気すら失せたムリナールはトーランドを見据えると、子どもならその気になれば生まれると呟いた。
途端にトーランドの表情が輝く。そんな顔は報酬が良い割りに楽な依頼を受けたときか、報酬額をうまいこと上乗せできた時にしか見たことがない。つまり、とても嬉しい時の顔だ。若い頃なら数日どころか半月は引きずっただろうが、そんな繊細さはとうの昔に使い切ってしまった。なのでムリナールは頭の中で何かがぷつりと切れる音を静かに聞いただけだ。
「そういうのは早く言えって。俺とお前の仲だろ? 嫁の顔を見せろとは言わねえが、ちょっとした祝いはさせてもらうつもりだぜ?」
それはもう上機嫌で満面の笑みを浮かべるトーランドにムリナールは淡々と、恐ろしいほど静かに告げた。
「お前が一年ほど女の姿でいれば、すぐだ」
トーランドは笑みを浮かべたまま表情を凍らせる。青い目が様子をうかがっているが、ムリナールはお構いなしに言葉を続けた。
「思う存分、父親の武勇伝を語ってやってくれ。タイミングが良ければ二人目の顔も見られるかもしれないぞ? 賑やかなのは悪くない。そうだろう、トーランド」
トーランドの視線は周囲に救いを求めるように泳いでいるが、応接室には二人しかいない。助け舟を出してくれる者はいないと判断したらしいトーランドはあからさまな愛想笑いをムリナールに向けた。
「確かに賑やかなのは良いが、冗談も程々にしといてくれよムリナール」
ムリナールは話を流そうと試みるトーランドから視線を逸らさずに尋ねる。
「冗談に聞こえるか?」
昔、トーランドの「兄弟」からこんなことを言われた覚えがある。
──あいつに本気だと理解させるには、解釈しようがないぐらい明確に話をするんだな。逃げ場も潰しとけ。それでも逃げるのがトーランド・キャッシュってヤツだ。
理解など求めていない。状況を変えようとも思わない。伝えようなどと初めから思っていない。だが、あまりに余計なお節介を焼くようなら黙っていろと言いたくもなる。
視線が交差した直後、トーランドは空々しい声を上げた。
「ちょっと急用を思い出したんで、帰るわ!」
勝手に押しかけといて悪いな、そんなことを言いながらかたわらのバッグに手をかけたトーランドにムリナールは追い打ちの言葉をかける。
「身内ということにしてほしいと言っていたな。届けを提出するから少し待て」
腰を浮かしかけたムリナールを見たトーランドは弾かれたように立ち上がり、偽造なんてやめとけ、と焦りの表情を浮かべつつ止めた。
「騎士様にそんな真似させるわけにいかねえよ。話を受けてくれただけで十分だって!」
忙しなく帰り支度を整えたトーランドはパンツスーツには似合わない無骨なジャケットを羽織ると逃げるように応接室のドアへと向かい、何を思ったか足を止めてムリナールを振り返った。
「──大騎士領の頃より今のほうが良いと思うぜ、俺は」
そんな言葉を呟いて、ちらりと笑ったトーランドは開いたドアから足早に出ていった。
ドア越しに聞こえる足音が聞こえなくなってから、ムリナールは書類の束を手に今度こそ立ち上がる。
幻滅してくれたついでに笑いかけるような真似も辞めてくれればよかったのに、トーランドは相変わらずだ。
恋心を抱くのも劣情を催すのも「こちら」の勝手だ。だが、察しの良いあの男がつかず離れずの距離を保ち、時に身体を委ねてくる間は執着するのも仕方がないのでは? そんな言い訳じみたことを考えつつムリナールは応接室を後にした。
──逃げるように退散したトーランドが話を聞いた古い兄弟たちから心がないだのいい加減弄ぶのはやめてやれだの性癖を捻じ曲げといてそれかよだのと散々に言われたのは、また別の話。