「Please don’t leave me」

日が暮れると鬱蒼とした木々が双月や星の輝きを遮り、暗い影ばかりを落としている。時折吹く風は枝を揺らしてざわめき、羽獣の声が不気味に響く。

ムリナールは地図を思い浮かべた。戦場と要塞の位置関係、周辺の町や村、森……今歩いているのは後方支援部と村の間にある森のはずだ。

隣を歩く騎士のにこやかな表情は変わらないが、ムリナールの不審は歩くたびに募っていく。

スニッツ様がお呼びですと聞いた時は呼ばれたのなら行かねばと思った。兄は父について要塞に詰めており、その兄が呼ぶのなら父もしくは戦線に何事かあったのではと考えた。

だが。戦争に参加したこともなければ刃を潰した剣しか手にしたことがない自分に何ができるというのだろう。夕暮れに染まる森を前に感じた冷や水をかけられたような気分は今も続いている。

次の一歩が踏み出せずにムリナールは足を止めた。風が吹いて木々の枝や葉を揺らしていく。

もしものためにと持たされた剣の鋭いきらめきを覚えている。あの時は嬉しかったが、腰に帯びた剣は今になってひどく重い。

ムリナールは意を決して、一歩先で振り返った騎士の顔を見上げた。

どうしましたかと尋ねる騎士は温和な笑みを浮かべており、穏やかな口調も変わりはないが、背後に広がる森は暗く、一歩でも踏み出せば飲み込まれてしまうように思えた。

引き返せと頭の中で声がする。それは父でも母でも兄でもなく、自分自身の警戒心が発した声だ。

「ここは要塞と真逆に位置している森ではありませんか?」

疑問を問いかける声は森の深くに吸い込まれて消える。騎士は表情を変えずに答えた。

「スニッツ様は戦線から離れておいでです」

そうですか、と答えはしたが信じられるわけがない。要塞が崩壊したとしても、戦いが続く限りニアールの騎士は戦場を離れない。

今にして思えばおかしな点は幾つもあった。周囲にいた人々が都合よく席を外したタイミングで見覚えのない騎士が現れて、兄が呼んでいるなどと言うのだから。

誰かに声をかけるべきだったが、忙しそうな大人たちの手を煩わせるのは気が進まなかった。ただでさえ忙しい中、役に立たない子どものために人手を割いていることぐらい言われなくてもわかる。

素直に大人を頼ればよかった、もう少し冷静になって考えればよかったと後悔するムリナールに、お兄様がお待ちですよと諭すように言った騎士が一歩踏み出した。笑っているはずの顔は夜に塗りつぶされたように暗い。

ムリナールは踵を返すと、騎士の手から逃げた。

夜の闇に沈んだ森は視界も足場も悪い。記憶を頼りに懸命に駆けていたムリナールは「なんとなく嫌な予感」を覚えて目の前に迫る低木の茂みで足を止める。

茂みを迂回していれば肩先のあたりだろうと思われる空間を鋭い切先が突いた。

振り返れば、騎士は剣を手にしている。

先ほど感じた嫌な予感が殺気と呼ばれるものかもしれない。戦場での生死を分けるのは鍛錬や技量だが、殺気を察知できなければ何もかも無駄だと騎士達が異口同音に語っていたのは記憶に新しい。

剣の柄に手をかけたムリナールに対して、騎士は優しげな声で語りかけた。

 「傷を負わせるのは本意ではありません。おとなしくついてきてくださいませんか」

「……お断りします」

ムリナールは言うが早いか剣を抜き、騎士が振るった剣を受け流した。刃が擦れる冷たい音が夜の森に響く。

騎士の太刀筋はムリナールが見切れるほど単純なものだった。しかし大人の力を受け流すにも限界がある。幾度か剣を交えて、ついに弾き飛ばされたムリナールは崩れた体勢を整えようとして木の根に足を取られた。

「……!」

左の足首に鋭い痛みが走る。

立つことはできる。歩くこともできるだろう。だが、弾き飛ばされた体を立て直し、再び剣を受けることができるだろうか。逃げるために走れるだろうか。考えを巡らせたところで頼りにできるのは手にした剣だけだ。

剣から手を離さないムリナールに騎士はため息をつく。

 「剣を持てなくなるのと走れなくなるのは、どちらがよろしいですか」

冷ややかな言葉が示す意味を悟ってムリナールは絶句する。

逃げられない。そう思った時だった。

突如、怖気を伴う気配が湧いた。ムリナールは上を、騎士は左右を見る。

上だ。ムリナールは夜空を遮る枝葉に目を凝らした。

何かが来る。剣を握る手に汗が滲む。

騎士が頭上を仰ぎ見た時、それは現れた。

影よりも暗い影がムリナールの前に降り立つと、白刃の輝きが騎士へと迫り火花を散らす。騎士は叫ぶと同時に剣を振り上げたが、再び奔った白刃が音もなく甲冑に沈み、振り上げた剣をそのままに騎士の体が傾いだ。

どっと重いものが地に倒れた音でムリナールは我に返る。

影は無言で騎士であったものを眺めているようだった。

次は自分。そんな予感を感じながらも動くことができない。初めて人の死を目の当たりにしたからか、怖気を伴う気配を浴びたせいか。

動けない理由を数えて、最後のひとつを確かめる。

軽やかな刃の軌跡を美しいと思った。夜をまとう影が振り向いてくれないかと、思ってしまった。

ムリナールが見つめる中、影は地に膝をつくと死体に突き立ったままの刃を抜いた。甲冑と刃が擦れる甲高い音が森に響く。小さな舌打ちに続いて男の声が聞こえた。

「……怪我はないか」

短剣を振り、鞘に収めながらの呟きが誰に向けられたものなのかわからずにいるムリナールに振り返った影が音もなく歩み寄る。

装備だけではなく、髪も肌さえも暗い色の男は目だけが青い。その、半輝石のような青い瞳にじっと見つめられてムリナールは思わず剣を握り直した。

瞳の色がわかるほど近づいてしまえば、剣の間合いなど意味を為さないのは騎士の顛末を見ればわかる。それでも剣を構えたのは、頼りになるものがそれしかない──というよりも、まだ戦えると示したかった。

……誰に?

ムリナールは青い瞳を見つめながら思った。

「坊や、どこか痛いところは?」

優しげな声と人懐っこい笑みは怖気を伴う気配を宿した影と同一人物だとは思えない。それに、男が笑ったほんの一瞬、目に映るもの全てが輝いた気がした。

そんなことをぼんやりと思っていると、男は少しだけ首をかしげる。

「聞こえてるかい?」

からかうような問いかけで我に返ったムリナールは目を伏せた。男はええと、あの。と言葉につかえるムリナールを急かしもせずに言葉を待っている。

 「……足を、くじいてしまったみたいです」

ようやく呟いた言葉に男はにこにこと笑いながら頷いて抜いたままの剣に視線を向けた。

 「まずは剣を下ろしてくれねえか。子どもを手にかけるつもりはないんでね」

敵意はないと示すつもりなのか、何も持っていないとばかりに両手を開いて見せた男にムリナールも剣を収める。

柄を握っていた手はひどくこわばっていて、剣を手放しても違和感が残っている。下げた手を背後に隠して何度か握り、感覚を取り戻そうとしていると急に体が浮いた。

「えっ……!」

驚きの声を上げるムリナールを軽々と抱えた男は、大人しくしてないと落としちまうぞと軽口を叩きながら低木の茂みを迂回する。

静まり返った森を足音ひとつ立てずに男が歩く。風に揺れる木々のざわめきに混じって羽獣の声が聞こえるが、不気味だとは感じなかった。

「……あの」

「何だい?」

後方支援部に向かって歩いているのは確かだが、男が何を考えているのかわからない。話をしようにも名前を知らない。知らないことだらけだとようやく気づいて恐る恐る声をかけたムリナールに、男は気さくに応じた。

「名前は……ええと、僕は」

「素性の知れない奴に名乗るのはお勧めしねえな。俺も名乗る気はねえし」

口もとに笑みをたたえたまま、男は考えなしの言葉に釘を刺す。

「じゃあ。なんて呼んだらいいですか……?」

「……お兄さんってのはどうだい?」

おじさんってのはナシで頼むな。と付け加えた男は何かを探すように周囲を確認していたが、あったあったと呟きながら真新しい切り株に歩み寄ってムリナールを下ろした。

 「くじいた足ってのはどっちだ?」

こっちです、と痛む左足を少しだけ前に出すと「お兄さん」は目の前に膝をついてムリナールの左足を軽く持つ。慎重に、それでいて手早く足首を確認すると、良かったなあ骨は折れちゃいねえよと笑った。

感情がこぼれるような笑みに心を奪われるムリナールをよそに、男は足から手を離すとウエストバッグから取り出した布を広げて手際よくたたみ始めた。

「固定するから、足はそのままにしといてくれ」

痛むなら教えてくれよと言いつつ男はあっという間にムリナールの靴から足首にかけて布を巻く。手慣れた様子からは男が日常的に戦場、もしくはそれに類する場所で活動していることが窺えた。

「……お兄さんは、どこの騎士団の人ですか?」

騎士の多くは剣や槍で戦うが、近接戦闘を主体とする者もいると聞いたことがある。装甲を極力省いた装備や短剣の扱いから近接戦闘に特化した騎士ではと思ったのだが、男は呆れたように答えた。

「騎士ってのはなあ、こんな半端者がなれるものじゃねえんだぜ?」

俺は傭兵だよと言い添えて立ち上がった男はムリナールに視線を向けた。

「坊やは立派な騎士になれるかもしれねえな──歩けるかい?」

機嫌を損ねたかと思ったが、傭兵の声音はあくまで優しく、穏やかだ。そっと立ち上がり、固定した左足に体重をかけると痛みはかなり少なくなっていた。これなら歩いて戻れる。そう考えてムリナールは答えた。

「……無理みたい、です」

ふうん? と呟いて首をかしげる傭兵の視線から逃れるようにうつむいたムリナールは言い訳めいたことを考える。歩けると答えるつもりだった。礼を言って、ここで別れるつもりだった。口を開くまでは。

嘘をつくのは悪いことだから叱られるかもしれないし、呆れて去ってしまうかもしれない。それもこれも全部仕方のないことだ。

言葉を待つようにじっとしているムリナールを傭兵はためらわずに抱き上げた。急に抱えられて慌てたムリナールが首にしがみついても気にした様子はない。

 「坊やみたいな可愛い子を置き去りってのも目覚めが悪いしな。送ってやるよ」

 「……ありがとうございます」

後ろめたさに苛まれつつ、絞り出すようにして感謝の言葉を呟いたムリナールに気にすることはねえよ、実入りが増えるに越したことはねえからさあ。と傭兵は言う。

わずかに揺れる視界はいつもより高く開けている。視線を移せば傭兵の顔が間近に見えた。半貴石のような青い瞳は木々で翳った先に据えられて、ムリナールの視線になど気づいていない……なぜか寂しく感じたムリナールは傭兵の視線が動いたことに気づく。

「どうした?」

ほんの少しだけ笑みを浮かべた傭兵になんでもありませんと答えつつ、やたらとうるさい胸の鼓動が聞こえませんようにとムリナールは思った。

 

坊や、キャンディでもどうだい?

そんな言葉と共に抱えていたムリナールを倒木に下ろした傭兵は言葉通りにキャンディを手渡すと、周囲をぐるりと見渡して腕組みをする。

「さて。どっちにいくべきかねえ」

何も聞かずに歩き出したものだから要塞の位置を把握しているとばかり思っていたムリナールはキャンディを開けようとしていた手を止めた。

正しい方角に向けて歩けば程なく森を抜けて要塞の灯りが見えるはずだ。歩けないと嘘をついた時は半ば無意識だったが、今度は自覚があった。

「……あっちです」

明後日の方角を指したムリナールは傭兵の視線を追う。視線は疑いを持たずに指の先を見つめている……ような気がする。

今日は嘘ばかりついている。見も知らぬ人に迷惑をかけているのはわかっているが、そこまでして傭兵と一緒にいたい理由がわからない。その上、嘘をついていると知られて嫌われるのも嫌だった。普段はこんなことをしないと訴えたい気持ちも相まって、ムリナールには今の自分がさっぱり理解できない。

手を下ろしたムリナールはキャンディの包みを左右に引く。ぱりぱりと乾いた音とともに現れた小さなキャンディはオレンジの香りだ。

「……あの」

思いきって声をかけると傭兵は隣に座って無造作に手を差し出す。キャンディの包みをよこせと言うのだろう。行動中の痕跡は極力消すものと習ってきたこともあり、特に疑問を抱くことなく差し出したムリナールの手を傭兵が掴んだ。驚いて手を引こうとしたが、やんわりと掴まれた手はびくともしない。

 「坊やのおうちはあっちだろ?」

傭兵はにこにこと笑ったままムリナールが指した方角と真逆を目で示す。やはり、どうして。と相反する感情がせめぎ合い、謝ろうとしたのに口から出たのは真逆の言葉だった。

 「知っているなら、どうして聞いたりするんですか」

責めるような口調を咎めもせず、傭兵は穏やかに答える。

 「思い込みで道を間違えるってのはよくある話だからな」

「……怒らないんですか」

「叱ってほしいのなら叱ってやろうか?」

傭兵は子どもの嘘など取るに足らないと考えているようだった。押し黙っていたムリナールはうつむいて、ごめんなさいと小声で呟く。

「謝るようなことじゃねえよ。ただまあ、知りたくはあるな」

「なにを、ですか」

力なく言葉を返したムリナールに傭兵は笑って問いかける。

「戻りたくない理由さ。おうちで嫌なことでもあったとか?」

「そんなことありません……!」

思わぬ言葉に顔をあげたムリナールは強い口調で否定した。むしろ戻らなければならないと思った途端に、今までの行動がどれほど愚かであったかを突きつけられたような気がして口を閉ざす。傭兵はそんなムリナールの様子にどうして嘘なんかついたんだと静かな言葉をかけた。

 「……傭兵が、どんなことをしているのか聞いてみたくて」

もう少し話をしたかっただけだと、たったそれだけが言えずにムリナールは嘘を重ねる。傭兵は何もかもわかっている、そんな気がしてこの場から逃げたくなった。だが、傭兵は手を離そうとしない。

「……戦場で戦うってのは騎士と似てるが、報酬ありきで動くのが大きく違うところかねえ」

だから、唐突に始まった話にムリナールは驚いた。淡々とした傭兵の語りは騎士としての教育を受けてきたムリナールにとって初めて耳にするものばかりで興味深く、面白い。

話に引き込まれていることを示すように、ムリナールの耳は傭兵に向いていた。

戦争に加わるだけでなく、護衛や情報収集も行うという。時には諜報活動も行うが、やりすぎると雇い主に消される可能性があるので断っていると傭兵は言い、金次第でなんでもやるが、命は金で買えねえからその辺の線引きが重要だと語った。

「傭兵に騎士の皆様方みてえな倫理観は期待すんなよ? 俺が報酬に満足してたら、あの騎士紛いでなく坊やを殺したかもしれねえ」

優しげな声のまま話を締めた傭兵はムリナールを見据える。口元に浮かべた笑みは変わりないというのに、まるで別人を見ているような気がした。

森の奥に今も横たわる騎士が最期に見たのはこの顔だろうかとムリナールは考えて、小さくなったキャンディを噛み砕く。

言葉を発するのにここまでの気力を要したのは生まれて初めてだ。

「騎士は……あなたが思うほど高潔じゃありません」

緩やかに吹く風が見つめ合うムリナールと傭兵の間を吹き抜けて葉を揺らす。静かなざわめきを打ち消したのは傭兵の声だった。

「可愛いだけの坊やだとばかり思ってたが、言うねえ」

傭兵は感心したように言うとムリナールの手を離して立ち上がる。

「そろそろおうちに帰ろうか。坊やが嫌じゃなければ送ってくぜ?」

もちろん、嫌なわけがない。

普段より高い視点で暗い森を眺めながら、試されていたのかもしれないとムリナールは思った。答えを間違えれば倒木の影で冷たい骸になっていたのかもしれないし、生きていたとしても父や兄の元には戻れなかったのかもしれない。愚かな子どもを叱るかわりに諭したのかもしれないし、世間話に興じていただけかもしれない。何にしても、こんなふうに接してくれる大人に出会ったのは初めてだ。

陣営を定めないという話からして、傭兵とは二度と会うこともないのだろう。そんなことを考えると寂しく、切ない。

やがて、木々の合間から光と喧騒が漏れ伝わってきた。傭兵は足を止めると大騒ぎじゃねえかとやけにのんびりした様子で呟いた。

実のところムリナールも驚いていた。後方支援を行う部隊がここまで騒がしい様子は見たことがない。戦線が崩壊した? と独りごちたムリナールに戦線が崩壊したならこの程度じゃ済まねえよ返した傭兵はしばらく黙っていたが、金色のクランタか。と小さく呟いた。

 「あの。お兄さん」

体を支えるために背中に置いていた手を肩に移して声をかけると、傭兵が返事のかわりに笑みを返す。

このままだと傭兵は捕まってしまう。それぐらいはムリナールにもわかる。もっと早く戻っていたら、そもそも、誰かを頼っていればこんな騒ぎには発展しなかったし傭兵の仕事を邪魔することも、騒ぎに巻き込むこともなかった。

「僕、歩けます。ここから一人で戻ります……嘘ばかりついて、ごめんなさい」

これ以上浅はかな行動に巻き込むわけにはいかないと考えて、伝わらないかもしれないが誠意を込めて謝ったつもりだった。投げ出されても仕方がないと思っていたのに、初めっからわかってたよと傭兵は軽い口調でムリナールの謝罪を受け流す。

「クランタの足は強いが繊細だろ? 無理するもんじゃねえよ。それに、ここで引き返したら俺はただ働きってことになっちまう」

剣は欠けちまったし、今更あっちに戻っても満額受け取れるかどうか。と独り言とも愚痴ともつかない傭兵の言葉を聞きながらムリナールは呆然としていた。何もかも見透かした上で傭兵は付きそってくれていたのはわかったが、どうしてそこまでするのか理解できない。

思わず傭兵の肩を掴んでムリナールは尋ねた。

「嘘だとわかっていたなら、どうしてここまで来たんですか……!」

「傭兵は報酬で動く生き物だって話したろ? そんでもって、今の仕事は割に合わなくてな。森に潜伏して情報収集とかやってられねえよ……そこに坊やが飛び込んできたってわけだ」

要は鞍替えってことだと傭兵は冗談めかして言い終えると喧騒へ視線を向けた。

「鞍替えするにもあの様子じゃちょっと難しそうだが……坊やは俺を助けてくれるだろ?」

気負う様子もなく、ムリナールを抱いたまま傭兵は喧騒へと向かう。木立ちを抜けて、殺到した騎士に取り囲まれても平然とした表情が崩れることはなく、ムリナールを抱く手に力が入ることもなかった。

眩いほどの光でひときわ輝く青い瞳がムリナールに笑いかける。

光の下で見る傭兵の表情は森の暗がりで見つめていたものと何一つ変わらない。そんな傭兵に嘘ばかりついてきたムリナールは、せめて期待だけは裏切るまいと背筋を伸ばして騎士達に視線を向けた。

 

期待に応えることができたかと言うと、できなかったのだろう。

傭兵はムリナールを盾に何かを要求することもせず、抗うこともしなかったと言うのに後ろ手に拘束されて連行されてしまったし、ムリナールは別室で事情を話し終えたところに訪れた父から軽率な行動がどんな結果を引き起こすか、時系列を含めて懇切丁寧に説明されたことで気落ちしていた。

愚かな行動だとわかっている上に、結果として多くの人が騒動に巻き込まれた事実。そこに傭兵がどんな扱いを受けているのか定かではないという状況が重なって、疲れているはずなのに眠気は訪れなかった。

謝ろうにも、二度と会えないのだし……とため息をついては寝返りを打つ。そんなことを繰り返して夜を明かしたムリナールの元を訪れたのは兄のスニッツだった。

大した怪我がなくて安心したと言い、普段聞き分けの良い奴がやらかすと大変なことになるなあと明るく笑う姿に少しだけ気が晴れたが、ため息を止めることはできない。兄なら素直に人を頼っただろうし、こんな騒ぎを引き起こすこともなかったと思ったが最後、情けなくて顔を上げることができなくなった。

そんなムリナールを歩けるなら散歩に行こうと外に連れ出したスニッツが向かったのは、少し離れた場所に設置された天幕だった。見るからに急造の天幕に何があるのかと続いて入ったムリナールは思わぬ人物の姿に驚いて立ち尽くしてしまう。

そこには、出立の準備を整える傭兵がいた。

どうも。と短い言葉と共に軽く頭を下げた傭兵に、あまり時間は取れませんと答えたスニッツはムリナールを置いて天幕を出る。

広い天幕には机と椅子がいくつかあるだけで、どう考えても傭兵の尋問用に設置されたとしか思えない。聞くべきことは山ほどあるはずなのに答えを聞くことが怖くて、ムリナールは傭兵から目をそらした。

「騎士様ってのは融通が効かない奴ばっかだが、あの兄さんは話が早えな」

世間話をするような気軽さで呟いた傭兵はしゃがみこんでムリナールの顔を覗き込む。

「別に何もなかったぜ? 話し合いに時間がかかったってだけだから、気にすんなよ」

良い短剣を用意してくれたし、物資の補充もできた。その上報酬は満額前払いっていうんだから仕事にも身が入るってもんだ。

傭兵はそんなことを言っていたが、ムリナールは言葉を返すことができなかった。

「……ごめんなさい」

ようやく口にできたのは謝罪の言葉だけで、その他には思い浮かばない。短剣だの物資だの報酬だのは傭兵が自ら交渉して引き出したもので、ムリナールがしたことといえば嘘をついただけだ。本当のことをいえば言いたいことがもう一つあるが、そんなわがままを言える立場ではないとわかっていたから言えなかった。

傭兵は困ったような顔をしていたが、深々とため息をつく。

嘘をついていたと告白した時でさえ笑っていた傭兵のため息にムリナールはうなだれることしかできない。きっと呆れているんだろう、そうとしか思えない。二度と会えないというのに顔も見れないなんてと服の裾を掴んでいると、心底困ったと言いたげな傭兵の呟きが聞こえた。

「こんなに困らせちまうんなら、黙って出ていきゃあよかったかねえ……」

その言葉は、何かを話して出ていくつもりだと言っているようなものだった。

考えてみれば、天幕に着くまで誰とも会わなかった。外ではスニッツが待っているのだろうが、監視の目もなく傭兵と話ができる今の状況は故意に作らない限りあり得ない。

「……お兄さんが、僕を呼んだんですか?」

重い口を何とか開いたムリナールにそうだぜと傭兵が答える。

「助けてもらった礼を言いたくてな。それに、可愛い顔も見ておきたかったし」

意外な言葉に驚きはしたものの、助けたという実感が何一つないムリナールはそんなはずはない。何もできなかったと呟くしかできない。

「んなことはねえよ。証言が一致してからは話が早かったし、かなり擁護してくれたって聞いてるぜ? おかげで割りの良い仕事にありつくことができた。ありがとうな」

穏やかな傭兵の言葉にムリナールはようやく顔を上げることができた。

「本当ですか……?」

「本当だって言ってるだろうに」

「そうですか……よかった……」

よかったです。ともう一度呟いたムリナールは別れの言葉を探す。新たな仕事を得た傭兵をぐずぐずと引き留めるわけにはいかない。そこまで考えて、報告で一度はここに戻るのではと気がついた。

曇り空から射す光を見つけたような気持ちでまた会えますよねと尋ねたムリナールに、傭兵は会えねえよと短く返す。

「……ただまあ。坊やが強くて立派な騎士になるまで俺が生きてたら、どっかの戦場で顔を合わせることもあるだろうな」

傭兵はポケットから取り出したキャンディをムリナールに握らせて、振り返りもせずに天幕を出た。

──あの時、何を言えば良かったのか。今になってもわからない。

忘れないと頑なに思っていた傭兵の顔も姿も今では朧げになってしまい、覚えているのは青い瞳だけ。

遠い思い出は胸のどこかにひっそりと、しかし消えないしこりのように留まり続けている。自分が強くなったのかも、立派になったのかもわからない。傭兵がどんな仕事を請け負い、失敗したのか成功したのかすら知らない。

もうどこにもいないのかもしれない。

ほんの一瞬、立ち上る黄砂にそんな思いを馳せた時だった。

金属を打ち合う鋭い音、そこかしこで漂う血と埃の匂い。怒号に断末魔。そんな中に刺すような殺気を感じたムリナールはガントレットで迫る刃を掴んだ。

ぎしぎしと刃が軋んで嫌な音を立てたが構わずねじ伏せると、刃から力が抜ける。殺気の主が武器を手放した、そう判断したムリナールは目にも止まらぬ早さで剣を抜くと薄れゆく殺気の元へと突きつけた。

アーツによる迷彩で姿を隠していたのか、それとも混乱する戦場で巧みに位置を変えていたのか。どちらにせよ懐に飛び込まれるまで気づけなかったのは一人で戦場に立つようになって初めてだ。ここまで近くてはアーツも放てない。

やるねえ。と剣の先から声が聞こえたかわりに気配が消える。どこか遠くで聞いた声にムリナールは剣を収めると同時に走り出した。

金色のクランタから逃れられる者はいない。捕えようと意図して追うなら尚更だ。

「おっと。怖い怖い」

飄々とした声を残して指先をかすめたのは、きっと青い瞳の持ち主だ。

立ち去る姿を何もできずに眺めるのは一度でいい。左足を軸にして急旋回したムリナールは殺気の名残を頼りに人混みを縫って駆けると、向こうが透けて見える土煙に迷いなく腕を差し伸べて引き寄せた。

確かな重みと体温を感じる腕の中で、迷彩がざらざらと溶けて形を露わにしていく。

恋人の抱擁に身を任せるように体を寄せた男はムリナールの喉元に冷たい刃を当てて、青い瞳にほんのりと笑みを浮かべた。

「坊や、キャンディでもどうだい?」

一瞬、戦場に不釣り合いなオレンジの香りが漂う。それは湿った森と夜の香りであり、初めて知った恋と死の香りでもあった。