ネコと会社員

夜気を含んだ冷たい風と共に聞き慣れない音が聞こえた。風の騒めきや夜通し行き交う車の音ではなく、羽獣のさえずりとも違う。だが、生き物が発する何らかの音。

不思議に思って窓に歩み寄ると、日が昇る前の薄暗い庭を背に黒い獣が鎮座していた。作り物のような青い目に丸く黒い瞳孔が浮くと、獣は「ぐるる」としか表現しようのない音を発して目を細める。

小さな頭に小さな耳、行儀良く揃えた前脚に長い尻尾をくるりと巻いている。首のあたりにだけ白い毛が混じっており、そこだけが妙に浮いてみえた。

毛が多めなフェリーンを獣にしたらこんな姿になるだろうか。そんなことを考えているうちに獣は止める手をすり抜けて音もなく床に降りる。小さく開いた口から聞こえたのは、にゃあ。という音だ。ちらりと覗いた暗褐色の口内に白く鋭い牙が生えている。

こういう牙してんのは肉食の獣だよ、と昔聞いた言葉が蘇る。きっと爪も鋭いのだろう。狩りをするのであれば足音ひとつ立てずに歩くのも納得がいく。

移動都市に似合わない獣だと思った。事実、こんな獣は見たことがない。荒野を歩いていた頃の記憶にもない。ふと「あいつ」なら何か知っているだろうかとつまらないことを思い、手にした剣を振った。

風を切る音に反応したのか、獣はぐるぐると不思議な音を立てる。

得体の知れない獣はその日から庭に居着いたようだった。

我が物顔で庭を闊歩しているかと思えば日陰で微睡んでいることもある。姿を隠そうともしない獣がマリアと遭遇するのにそう時間はかからなかった。

休日には庭から軽やかな笑い声が聞こえるようになり、たまに悲鳴が混じるようになった。それはそうだろう。黒い獣──マリアはネコだとか言っていたが、ネコは狩りをして生きている。前足で可憐な羽獣を押さえている光景に遭遇したことがあるが、似たような状況だろう。やがてマリアがネコを抱えて、部屋で飼いたいのだと意を決した表情で申し出た。

自由気ままな生き物を閉じ込めて、得られるのは人間の身勝手な満足感でしかない。だからやめておけと止めた。

気落ちした様子のマリアは雨風を凌げる小さな箱を庭の片隅に置き、ネコを構うようになった。部屋に入れているわけではないので強くは言えない。どこで調べたのか餌を用意して、たまにブラッシングをしては黒い毛並みを整えている。そんな姿が庭に馴染むのはあっという間だった。

……ネコには日課のようなものがあるらしいと、随分前から気付いていた。日中は知らないが日が昇る前は無為な訓練を眺め、日が暮れて日付が変わる前にはエントランスに座っている。変わり映えのない日常に突如出没した黒い獣は一日の始まりと終わりに必ず姿を見せて、やがて日常の一部になった。

肌寒い頃から暑さを経て刺すような風が吹くようになった頃、雪が降った。天災の兆しはないというが積もるほどの雪は流石に珍しい。白銀の景色を前に騒ぐ人々に辟易としながら帰宅すると、エントランスには黒い姿のかわりに小さな箱があった。

いつもなら庭の隅に置いているはずの箱の中には断熱材だの毛布だのが詰め込まれており、目を細めたネコが埋まっている。

雪片はエントランスにも舞い込んでおり、風向きによっては箱を埋めてしまうかもしれない。しばらく悩んだ結果、ネコを箱から抱き上げた。冷えた手に黒い毛並みは柔らかく暖かい。

嫌がる素振りも見せずに腕の中におさまったネコを抱えたままドアを開けると、今まさに外に出ようとしていたマリアが驚いた顔で腕の中に視線を移し、ずるい、叔父さんずるい。と憤慨したように訴えた。

雪とネコが気になっていたらしいマリアにネコを託して自室に戻ると、職場での出来事を噛み砕くように思い返す。思わぬ天候の変化で滞ってしまったもの、期限が迫っているもの。そんな諸々を棚に片付けるように整理する。不要な出来事は忘却し、必要な事柄のみを残す。

身の回りと思考を整え終えてコーヒーでも飲もうと部屋を出ると、かすかだが賑やかな声が聞こえた。ネコを受け取ったマリアが何かしているのだろうと察したが、慌てた声が聞こえた時はさすがに足を止めた。

ほっそりとした黒い何かが矢のように駆けてくる。続いて飛び出したマリアが捕まえてと悲鳴のような叫びをあげたので、反射的に足元をすり抜けようとするものを捕らえた。

それは、濡れたネコだった。

何事かを訴えるようにうにゃうにゃと唸るネコを手渡すと、マリアは申し訳なさげに耳を傾けてきれいにしようと思ってと呟き、ネコは不本意だと言いたげにふたたび唸った。

ごめんなさいと項垂れているが、そもそもマリアが連れ込んだわけではない。叱るとすれば、考えもなくバスルームのドアを開けたことぐらいだ。

冷えないうちに乾かしてやりなさいと言って階段を降りると、弾むような返事が聞こえた。よかったねえもう寒くないよと優しく語りかける声に小さな鳴き声が応じている。

コーヒーを入れて戻った時にはマリアとネコはいなかった。

小さな生き物の存在で少しだけ賑やかだった一瞬は活気と輝きに満ちた在りし日のようだったが、取り返しのつかない喪失を突きつけられたようでもあった……気がつくと、手にしていたカップはすっかり冷えて、部屋にも冷気が忍び寄っている。

カーテンを閉めるために立ちあがろうとした時、ドアの向こうに人の気配を感じた。控えめなノックに応じるとそろそろと開いたドアから黒い獣が断りもなく部屋に入り、マリアが顔を覗かせた。

ネコと一緒に寝ようと思ったのに、当のネコはベッドにもソファにも乗らずドアの前で開けろとばかりに何度も鳴いたそうだ。仕方なくドアを開けると向かったのはここだった。ということらしい。

ネコはというと、部屋を見聞するようにうろついている。少なくとも今晩は庭に出さないと約束するとマリアは安心しつつもほんの少し残念そうな顔で部屋に戻っていった。

冷めたコーヒーを飲みながら窓辺に積もる雪を眺めていると、ネコがしきりに体をこすりつけてくる。尻尾が離れたと思ったら頭をぶつけるしつこさに、寝たいのなら好きなところで寝ればいいと言うとネコはベッドに飛び乗った。

ぱたぱたと揺れる尻尾の先がお前も早く寝れば? と笑っているような気がして、少しだけ昔を思い出した。

ネコは室内で過ごすことが増えた。かと思えば枯れ草が揺れる庭でどこかを眺めていたりする。窓もドアも閉めているのにどこから出ているんだろうとマリアは困惑していたし、話を聞いたらしいゾフィアからは家屋のメンテナンスを提案されたが断った。あのネコはその気になればどこにでも現れる。

庭に居着いたばかりの頃に試したが、窓を閉ざし鍵を閉め、隙間などないと確かめたにも関わらず翌朝訪れると黒い獣は当然のように古びた椅子に座っていた。

屋根裏にでも隙間があるんでしょうとため息混じりにゾフィアは呟き、雨漏りするようならいうのよとマリアに言い聞かせている。ネコは耳を動かして会話を聞いているような素振りをしていたが、短く鳴くとソファに飛び乗って二人に愛想を振りまいた。

頭やあごの下を撫でられて満更ではないといった様子のネコには金色のリボンが与えられるようになった。

野良だと勘違いした人が連れていったら困る、だってこの子は人懐っこいし可愛いからとマリアは主張していたが、首に巻いたリボンが気に入らないらしいネコは半日もすれば庭や廊下、時には階段の手すりにリボンを置き去りにして悠々と寝そべっている。

確かに人懐っこくはあるが、可愛いと思えないのはそういうところだ。しかも、ソファでうたた寝などしようものなら前足で叩き起こされた挙句にひどく文句を言われる。何を言われているのかわからないのでまだいいが、言葉が通じたら結構な言い争いに発展するのではないか。それでいて寝るとなればベッドのど真ん中を陣取って遠慮もなく寝てしまう。その度にマリア謹製の寝床に入れていたが、何をどうやっても潜りこんでくるので近頃は諦めた。

ベッドで長々と背伸びをしては寝返りするように転がるネコは人懐っこく気ままで、掴みどころのない姿を彷彿とさせる。寒さも過ぎて、庭の木々には新芽が芽吹きはじめた……外で過ごすには良い頃合いだ。部屋でごろごろとしている姿も珍しくなるに違いない。一つ所に留まらず、所在を定めないところも似ている。今はどうしていると言っていたか。随分前に届いた手紙には何と書いてあったか。

──懐かしい夢に目を開く。目に映るのは星が瞬く夜空ではなく「私」はひとりだ──

いつ、目を閉じたかも定かではない。時間を確認しようと体を動かして驚きの声を押し殺す。

視界に入ったのはネコではなく人の頭だ。黒髪の合間から覗く褐色の肌と頬に走る傷には見覚えがある。髪を梳くと角の跡が手のひらを擦った。

まだ夢の中にいるのかと己を疑った時、ぱちりとまぶたが開いて青い瞳と目が合う。

黒髪の主は驚きの叫びを上げると同時に弾かれたように体を起こした。その反応も表情も、不意の出来事であると語っている。

無言でにらみ合う中に響いたのは言葉ではなくノックの音だった。二人して視線を向けた先から叔父さん? と控えめに呼びかける声が聞こえる。

今すぐ出ていけ、それかネコに戻れ。そう言い残してベッドを降りると、無茶言うなよとぼやく声に続いて気配が動いた。

背後で動く気配が消えてからドアを開ける。誰かの声が聞こえた気がすると訴えるマリアに悪い夢でうなされたのだろうとそれらしいことを言って誤魔化し、部屋に戻るよう促していると冷たい風が吹いた。

後ろ手にドアを閉めると夜風にカーテンが揺れている。開けっぱなしの窓に近づく前に、細く開いたクローゼットからネコが現れてにゃあと鳴いた。

窓もクローゼットも閉めていたはずだが……常識的に考えて、ネコは人になったりしない。不審者が忍び込んだと考えるのが普通だが、あれが侵入先で眠りこけた挙句、起こされて叫ぶなどありえない。反応からして隣で寝ていたネコが無意識に人に戻ったと考える方が理にかなっている。

足に体をこすりつけるネコを問い詰めようとして、やめた。獣に言葉が通じるはずがないし、確たる証拠もない。ネコはクローゼットで遊んでいたのかもしれないし、あれは窓から来て去ったのかもしれない。こんなことならリボンでもなんでもいいから目印をつけておくべきだった。クローゼットから出てきたネコはきっと目印をつけたままだろうから。

何もつけていなかったら? クローゼットのどこかに引っかかって外れただけの話だ。

現実離れした考えを振り払うようにため息をついて、デスクの奥にしまいこんだ紐を取り出した。軽いわりに丈夫で髪を縛っても滑り落ちたことがない。色褪せてしまったが黒い毛並みには合うだろう。

ベッドに座り、隣を軽く叩くとネコは軽々と飛び上がって膝の上に座った。膝に来いと言った覚えはないが暴れなければなんでもいい。

紐を結び終えるとネコは膝から降りていつものように転がった。人のように仰向けになっているが少々油断が過ぎる。ここが荒野なら腹を狙われて終わりだ。

柔らかい腹に手を置くと、青い目でこちらを一瞥したネコは大きく伸びをしてぐるぐると喉を鳴らした。

庭を歩いていることもあれば階段の手すりから階下を見渡していることもある。腹が空けばマリアに何事かを訴えて、たまに訪れるゾフィアがおやつを持参していると知れば足元をうろついて離れない。ネコは変わらず気ままだった。

あの夜に結んだ紐はいまだにネコの毛並みを彩っている。もう少し可愛くしたかったけれど、飼ってるってわかるからいいよねとマリアは笑っていた。だが、ネコに飼われている意識などないだろう。ゾフィアは君にばかり懐いてと拗ねているが、人ではなく場所を選んでいるだけだ。

尻尾を立てて、足取りも軽く歩く姿は道案内をしているようにも見える。日も昇らぬ暗い廊下を歩き、庭を抜け、半ば緑に覆われた建物の前で歩みを止めるのも、鍵を開けろと言わんばかりに見上げて尻尾を揺らすのも、ドアを開けた途端に室内に滑り込むのも見慣れた光景になってしまった。

座る者がいない椅子に座り、長い尻尾を前足に巻いたネコは一部始終を眺めている。開け放った窓から逃げもせず、古びた室内を巡るでもなく、ただじっとしている。

──滴る汗を拭ったムリナールは窓から吹く風に季節が一巡したことを知った。

夜が明ける前に部屋を出て訓練室に入り、日が昇るまで「基礎訓練」を行う。一日たりとも欠かしたことがない日課に黒い獣が姿を見せてからそれなりの時間が過ぎたことになる。

企業に勤めるだけの人間に鍛錬など必要ない。無駄だ、限られた時間を有意義に使えと言われずともわかっている。過去を知る者達が目撃すれば嘲笑うであろうことも想像がついた。

だが、それがどうしたというのだろう。剣を置いたからといって、鞘の中で錆びつくままにしておくとは限らない。再び剣を抜く日が来ないとしても研ぎ続けることが大騎士領に戻ったムリナールにできる数少ない事のひとつだった。

剣が折れ、膝を折ることなど恐ろしくもない。錆びたことで守るべきものを取りこぼすことだけが、例えようもなく恐ろしい。

薄明るく白む空を眺めていたムリナールは背後を顧みた。老朽化した設備の中に黒い姿だけがぽつんと浮いて見える。物言わぬ獣は何を思うのだろう、そんなことを考えて眉をひそめる。ネコは獣であり人ではない。言葉も通じなければ意思疎通ができるわけでもない。それでも、お前は嗤うかと呟きが漏れた。

首を傾げたネコは音もなく歩み寄るとムリナールを見上げる。声に反応して近づいただけであり、見上げているのも普段と異なる様子を不思議に思っただけで意味はない。そう、わかっていながらネコを抱き上げた。

腕の中で向きを変えていたネコは肩に前足をかけるようにして体を伸ばすと、小さな頭を頬にこすりつけて喉を鳴らす。耳に心地良く響く音が何事かを囁いているように思えて、ムリナールはネコの頭に頬擦りをした。

日が昇るまでのわずかな時間、ひとときの逢瀬のように寄り添っていたネコはムリナールの腕からするりと逃げると床に降りて長い尻尾を振った。

ムリナールに無駄にできる時間などなく、ネコはマリアに朝の挨拶をする仕事が待っている。

一人と一匹の、いつもと変わらない一日が始まる。