猫と陰陽師/陰陽師と化猫

猫と陰陽師

「拙僧にあまり触れてはなりませぬ、と申し上げたはずですがー!」

叫びと賑やかな声、それに複数の足音がカルデアに響く。軽い足音やブーツのヒールが立てる音、それに獣の抑えた足音だ。時折、鈴のような音色が響く。

「そうだね! それはそれとしてちょっとぐらいもふらせてくれても良くない?」

「マスターにおかれましてはフォウくんなる面妖な獣を思う存分もふればよろしいかと存じます!」

「それはそれこれはこれって言葉知ってるー?」

「もちろん、存じておりますとも!」

カルデアを駆けるのは汎人類史最後のマスターを筆頭に彼女をおかあさんやトナカイさんと慕う少女サーヴァントたち。そんな彼女たちが追うのは猫と言うには少々大きめの獣だ。

白と黒の毛並みは緩くカールを描いており、駆けるたび二又にわかれた尻尾の先に下がった鈴が鳴る。

カルデアでも異端のサーヴァント、アルターエゴ蘆屋道満が行使する変化術の一端が白黒の獣だ。

理由はわからないが道満は少女サーヴァントたちに懐かれており、ごっこ遊びに興じたりせがまれて本を朗読する姿が目撃されている。今回の騒ぎも少女たちの遊びに準じるものかと思われるが真相は定かではない。

ぱっと見は大変微笑ましい光景である上に過酷な戦いに身を投じ続ける「我らが」マスターが楽しげとくれば止める者もいない。カフェテリアにでも乱入すれば厨房を守るサーヴァントたちが実力行使に出るだろうが、獣もその辺りは弁えているらしくカフェテリアを避けている。

「だったら一度ぐらいもふらせてくれても良くない?」

「ですから! 拙僧に触れてはなりませぬとあれほど!!」

「いやでも猫だよ? 猫なら良くない?」

「良くありませぬ!」

マスターに積極的に触れようとする者は多いが触れるなと言いながら逃げる者は珍しい。もっとも、道満の言動は多くのサーヴァントが注視しており、下手なことをすれば焼かれたり斬られたり毒を盛られたりしかねない。

マスターの背後から撫でさせてあげたらいいのに、と少女たちが無責任な声をあげる。

子どもの頼みだ。普段なら大概のことは聞くのだが今回ばかりは聞いてやれない。道満は手っ取り早く隠形を使うことにした。後日、少女たちになじられるだろうが甘んじて受け入れることにする。

「あっ、ずるい!」

「消えるなんてずるいですよ猫さん!」

非難の声が飛ぶ中、足先から隠形が始まる。マスターの声が聞こえないことを不思議に思ったが姿を消してしまえばこちらのものだ。そう思った矢先、鼻面に符が叩きつけられた。

「ンギャッ!」

隠形が消された上に捕縛の術まで上書きされてしまい、道満は身動きができない。

こんなことをやってのけるのは系統を同じくする術を修め、かつ道満よりも優れた者。すなわち安倍晴明しかいない。案の定、固まった獣の体を抱え上げたのは晴明その人だった。

「捕まえましたよ、マスター」

「ありがとう、晴明」

にこにこと満面の笑みを浮かべるマスターは息切れ一つしていない。人理を修復し、異聞帯及び異星の神を討ち倒さんとするマスターだ、この程度の運動で息切れなどされても困るのだが、両手をわきわきしながら迫られるのも困る。

ぼふっ、という音が聞こえそうな勢いでマスターが腹に顔を埋める。平安の世で高貴な者に愛玩されていた猫が近代でも変わらず愛されていることは知っている。猫吸いとかいう奇行も知識として有しているが、まさか身をもって味わうとは思ってもみなかった。

声をあげられるものなら大騒ぎしているところだが声までも封じられているようで、道満はマスター始め少女たちに撫でられ揉みくちゃにされ、せっかくの毛並みがぼさぼさになるまで弄ばれた。

もうどうにでもなれと心に虚無を抱いたあたりで晴明が少女たちに声をかける。

「お子たちはそろそろ就寝の時間でしょう。道満法師も死んだ魚のような目になってしまいましたし」

晴明は再び道満を抱えると穏やかな口調で少女たちに語りかけた。

「猫というのは実に気まぐれな生き物です。構わないぐらいがちょうどよろしい……そうですね? ナーサリー・ライム」

「そうね。そうかもしれないわ。特に、にやにや笑いの猫はそうかもしれないわ」

楽しげに駆けてはいたものの、積極的に手を出そうとはしなかったナーサリーは獣の頭を優しく撫でる。

「マスターも同じですよ。どのような姿になろうと道満法師にかわりはありません。くれぐれも取り扱いにはご注意を」

晴明にやんわりとたしなめられてマスターはもにょもにょと言い訳を始めた。

「だって、猫を見るのはほんとうに久しぶりだったから……」

「このような猫を見るのは私も初めてです。マスターの時代には多いのですか?」

「日本は今でも丸っこくて毛が短い猫が多いよ。でも海外の寒いところではこんなふうに大きくて毛足が長くて綺麗な顔をしてる猫もいるの。メインクーンとかノルウェージャンフォレストキャットとか。すっごくお高い猫だけど」

「なるほど。私が生きた時代と変わりない猫が多いのですね……猫は宮中でも愛されていました。マスターの気持ちはわからないでもないですよ」

晴明とマスターはしばし歓談を交わし、別れた。ぬいぐるみのような毛玉を小脇に抱えて歩く晴明とすれ違ったサーヴァントたちは一瞬ぎょっとするがすぐに納得した表情を浮かべる。というのも毛玉の鼻面には符が貼り付いており、状況はわからないが道満が何かしでかしたのだろう、と察するからだ。

道満は晴明の監視下にあり、晴明がカルデア所属のサーヴァントに術を行使するとしたら相手は道満しかいない。そんな認識がいつのまにか浸透している。根回しの巧みさは政権のそば近くで活動した晴明ならではだろう。

そういうところが癪に触ると抱えられた道満は思うのだが、口もきけなければ動くこともできない。なすすべもなく晴明の私室に連れ込まれてしまった。

「お子たちに変化術が見たいとせがまれましてね。薬にも毒にもならない獣に化けたまででございます」

獣の姿で申し開きをした道満は晴明に捕らえられたまま室内を観察した。寝台を中心に構築された入れ子状の結界に加えて扉には符が貼られている。不用意に触れると何かしら良くないことが降りかかるのは明白だ。

道満の私室も似たようなものなので人のことは言えないが、連れ込んだ者を逃がさない作りになっているのはどうかと思う。

「ついでにマスターを誘ったと?」

「誘惑するならこのような子供騙しは致しませぬ」

猫だよ綺麗ですねかわいいわと口々にもてはやされ、まんざらでもない気分でそうでしょうそうでしょうと応じていたら目を輝かせたマスターが乱入したというのが事の顛末だ。

普段の姿では多少引き気味のマスターが獣になった途端抱きついてくるというのは複雑な心境ではある。

「それはそうか。猫の姿で迫ったところで何ができるわけでもなし」

「ご理解いただけたなら解放してもらいたい」

道満は二股に分かれた尻尾を寝台に叩きつけて苛立ちを表してみるが、晴明は手を離そうとしない。

「おまえ、艶々しているね」

それどころか頭から背にかけて手を滑らせて乱れた毛並みを整えていく。

「話を聞いておりますか?」

「白いところはふわふわしている。変わった毛並みだが悪くない」

晴明はついに獣の道満を膝に乗せ、前足をいじり始めた。肉球をつついたり押したりして問いかけに答える気配すらない。

「せーいーめーいーどーのー、話を聞いておりますか?」

「ほう、爪は翡翠色だね。獣に転じた場合、手足の感覚はどうなるのか……」

「晴明どのー?」

「抱えてほどほどに重い程度だし、質量保存はどうなっている? 内臓も獣そのものか興味あるね……おまえ、生前は不死を会得していただろう?」

道満は腹をもさもさと撫でながら物騒なことを口走る晴明の膝に思いっきり尻尾を叩きつける。

「生前は生前。此度はまた違います。晴明どのも泰山府君祭を執り行うことは不可能でありましょう」

「…………やってみなければわからないだろう」

腹を撫でていた手を止めた晴明は道満を目の高さまで持ち上げた。獣の視界に映るのは術者としての興味に目を輝かせる安倍晴明だ。

術者は未知の技術に出会った時の反応で資質の有無を測ることができると道満は思っている。晴明はその点、最優の資質を有している。そこは道満ですら認めるところだ。

問題は、未知への興味が道満に注がれている現状だ。

「妙なところでやる気になるのはやめていただきたい」

このままだと目を輝かせた陰陽師に何をされたものだかわからない。

「私も姫に化けるぐらいはするけれど、身体構造を変えるほどの変化は中々。その点、此度のおまえは童やら獣に化ける。優れた術を明らかにしたくなるのは術師の性だ」

もっともらしいことを言いながら晴明はにこにこと笑う。常日頃の心の内がわからない笑みとは性質が違うあたり得体が知れない。道満は両前足で近づく晴明の顔を押さえた。

「そう言われると悪い気がしないでもないですが、要は拙僧を解体したい。と理解してよろしいですか」

「そうだね」

満面の笑顔で猟奇的とも言える興味を全肯定されてしまうとさすがの道満も苦笑いするしかない。獣なので笑うというよりも首を傾げ、尻尾をふらふらと振る、という仕草になってしまうが。

「ンー……いい笑顔で言われても拙僧、困りますな」

「困るかい?」

晴明がようやく手を離し、道満は寝台の隅に逃げることができた。前足を揃え、二股の尻尾を丁寧に巻きつけて座ると晴明を見上げる。

「解体したいとの申し出を快く引き受けるほど寛容ではございませぬ」

しばらく、沈黙が流れた。

「まあ、機嫌を損ねて妙なものに化けられても困る。その点見目麗しい獣であればお子たちやマスターが楽しめるし手触りも良いしね。追及はしないでおこう」

心底残念、といった様子で晴明が解体を諦める。小さくためいきなどついているが、ためいきをつきたいのはこちらの方だと道満は思う。ともかく、晴明の私室にこれ以上滞在する理由もないので道満は逃げることにした。

「その通りでございます。それでは拙僧はこれにて……ンンン? 晴明どの? 晴明!」

立ち上がり、寝台から降りようとした体が何かに掴まれているように動かない。体のどこにも負荷や圧力を感じないのに身動き一つできない、などとふざけた状況を生み出せるのは晴明しかいない。

「なんだい」

晴明へは足が進むあたり、非常に腹立たしい。道満は鼻面に皺を寄せて晴明を見上げた。

「今、しれっと拘束などせなんだか」

威嚇の表情を浮かべる獣に対し、陰陽師はちらりと涼やかな視線を向けるだけだ。

「したよ」

「したよ。ではない!」

牙を剥きだして声を荒げる道満に晴明は鼻で笑う。

「気付かぬおまえが悪い」

「工房内で起こりのない術に気づける者など居らぬわ!」

晴明の術は「起こり」が判じづらい。いつ、なにをしたのかわからないことがほとんどだ。その上、晴明の私室……魔術師は工房と呼ぶが、いわば支配領域である空間で術を行使されては対処に慣れた道満でも手の打ちようがない。

蛇のような威嚇音を立てる道満に興味津々といった視線を投げかけながら晴明は真顔で告げた。

「再会した日に言っただろう、監視が解けたらおいでと。監視が解けて幾日過ぎたと思っている? 私はずっと待っていたのだが」

あまりの言葉に道満は唖然とする。もしかしたらニャッ、ぐらいは鳴いてしまったかもしれない。

道満は意識して晴明に近寄らないし、晴明も簡素な監視用式神を寄越したっきりなのでまともな会話を交わすのは再会した時以来だが、正直気が抜ける。煽るだけ煽るのは生前と変わらないのに煽った挙句に罠に陥れるのではなく、包み隠さず心情を伝えてくるので怒りが持続しないのだ。

「よもや馬鹿正直に訪れると思っていたとは……」

普通は口約束だと思う。道満としては口約束であってほしかった。そうでなくとも訪れるわけがない。それぐらいわかるだろうと思うが晴明は違う考えだったらしい。

道満の意向を尊重したと思われるあたりは評価しないでもないが、絶対の自信に裏打ちされているあたりが面倒だ。

「誠実だと言ってもらいたい」

「ンン……重い男だと言われたことはございませぬか、晴明どの」

「ない」

まさかの即答に道満はためいきをついた。獣なので力なくニャア、と鳴くだけだが。

「改めてお教えいたします。そういう男性を近代では重いというのですよ」

尻尾の先を揺らしながら指摘すると晴明は瞬き、何事かを思案する様子を見せた。

「そうか。では明日にでも香子に見解を尋ねることにしよう」

「は?」

思わぬ言葉に道満は思わず毛を逆立てる。総毛立つという表現を絵に描けば今の道満のようになるだろう。

「清少納言どのにお尋ねするのも良いかもしれぬな」

追加された名に驚いた道満は思わず晴明の膝に前足を乗せる。背を伸ばすと晴明の顔が近くなった。

「お待ちを。それは拙僧に対するあれこれを含めてお尋ねになるので?」

伸び上がり、鼻面を近づける獣の頭を軽く撫でながら晴明はそれが世界の理、とばかりに告げる。

「もちろんだろう。そうでなければいかな香子でも見解を述べることはできまい」

「いや……それはちょっと……」

おまえは何を言っているのか。寝言は寝て言え。とありきたりな罵倒が道満の脳内を巡るが言葉になるのは凡庸な呟きだ。気の利いた皮肉でも言ってやりたいが考える気にならない。どうせ何を言っても斜め上から切り返されるだけだ。

「何か不都合でも?」

目を細めた晴明に道満は力なく尻尾を揺らした。

「不都合だらけだと思わないのが一周回って不思議でございますよ……」

蘆屋道満を口説いたら重い男だと言われた。どう思う? などと尋ねられて面食らう紫式部と大笑いする清少納言が見える気がする。

紫式部は真面目に答えるかもしれないが、顔を合わせたら三回に一度は霊衣を脱がせにかかる清少納言が何を言いはじめるか。考えるだけで頭が痛い。晴明だって「あの」蘆屋道満を? と言われるだろうに、その辺りは考えていないようだ。おそらく気にかけてすらいない。他人の評価など必要としなかった晴明らしいといえばらしいのかもしれないが。

「おまえが頼むならやめてもいいけどね。どうする?」

あれこれと考えていた道満はとんでもない提案を耳にして尻尾が立った。せっかく逆立った毛がおさまったというのに次は尻尾だ。

「何故拙僧が頼まねばならぬのです!」

尻尾を叩きつけながらの抗議を晴明はしたり顔で聞き、もっともらしく頷いた。

「私は不都合など感じないけれどおまえは感じるのだろう? おまえの為にやめるのだからおまえが頼むのは当然だと思うが」

空いた口が塞がらない、とはまさにこのことだ。これ以上何を言っても無駄と判断した道満は耳を伏せつつ、やめていただければ幸いにございます。と嫌々ながらに投げやりな口調で「頼んだ」。

これぐらいで晴明が思いとどまるなら安いものだ。意地を張った結果、どん詰まりまで追い詰められた回数なら誰にも負けない自信が道満にはある。

はたして、晴明は満足したようだった。

「そこまで頼まれてはしかたがない、やめておくことにするよ。それにしてもおまえは思ったよりも奥ゆかしいね。もう少し奔放だと思ったのだが」

晴明は上機嫌で獣を抱えると膝に乗せる。何を言ってもしても無駄と諦めがつけば腹も据わるというもので、道満はおさまりが良い位置を模索し、晴明の膝で落ち着いた。

「……何を仰っておいでで?」

奥ゆかしいだの奔放だのと勝手なことを口走る晴明に抗弁するのも飽きたので話の先を促すと頭を撫でられた。

どうやら話し相手になれと言いたかったらしい。それならそうと言えばいいものを、と考えたところで「蘆屋道満」が素直に話し相手になるわけがないと納得する。アルターエゴとして成立した己でも同じことだが。

「だって、私との関係を知られなくないのだろう? 私はどちらでも構わないのだけれど」

「関係とはなんです、関係とは。そちらの勘違いを当然の如くこちらにまで押し付けないでいただきたい。それと、いかにも節操なしのように言われるのは心外でございますな」

「そう見えたけどね。違うなら教えてもらいたいものだ」

晴明が見えた、というからには人の出入りをある程度見ていたのだろう。貞操観念など人によって違うのだからとやかく言われる筋合いはない……人の出入りを盗み見するような陰陽師には特に。

尻尾の先を揺らしながら道満はささやかな訂正を試みた。

「必要に応じて、とだけ申し上げておきます。まったく……生前の拙僧をどのように見ておいでだったのか」

「うん? 法師のくせに男女問わず節操のないとは思っていたけど、むべなるかな。と」

「それはどういった意味で?」

「だっておまえ、見目は良いからね。険がなければそこらの姫など足元にも及ばない嫋やかな顔立ちだし耳触りの良い声で心にもないことを囁くだろう?」

「それは随分な言い様でございますねェ……」

容姿や声を褒められているのだが、良い意味ではないあたりに性格の悪さがうかがえる。もっとも、道満自身その辺りを意図的に使い分けていたきらいはあるので強くは言えない。

「本当のことだろうに。ま、私には険のある顔ばかりだったけれど」

「ほぉ? 優しく笑いかけてほしかったのですか」

おとなしく笑って籠絡できるなら幾らでも笑うが、そんな可愛げのある性格でもなかろうに。と考えて道満は気づいた。

色仕掛けはした事がない。

口説いているなどと真顔で言い放つ今の晴明ならともかく、生前となれば話が違う。効果は皆無だろうし簀巻きにされて一条戻橋の下に蹴込まれるぐらいはされそうだ。

「まさか」

なので、軽く笑いながら否定する晴明には少し安堵した。益体も無いことを考えてしまった。

「それは良うございました。気が合いますな」

「そうだね」

顔は見えないが頭や背を撫でる晴明の手はとても軽く、機嫌も悪くないように思える。話にも十分付き合ったことだしそろそろ解放してもらいたい。道満は伏せていた顔を上げた。

「珍しく気が合ったところで、拘束を解いていただけませぬか」

「構わないよ。ほら」

即答した晴明は獣の背から手を離す。

解放された道満は晴明の膝から降りて寝台の端まで歩き、床に降りようとして新たな結界に気づいた。前足でつつくと音がしそうなほどわかりやすくあからさまなのに、すでに構築されているどの結界よりも解除が困難そうなところに明らかな悪意を感じる。

ちょいちょいと結界をつつきつつ道満は晴明に問いかける。

「ンー……拘束の代わりに結界を一つ増やしたのは嫌がらせですかな?」

「客人ともう少し話をしたいだけだよ」

悪びれない返事にまだ話すことがあるのかと驚いたが、広い視界の片隅に掠める影を捉えた道満は頭上を仰ぎ見て晴明に向き直った。

「お待ちを。なぜ霊衣を脱ぐのです?」

頭上……結界の上を掠めて飛ぶのは普段晴明が身につけている霊衣だ。脱いだ端から無造作に投げているように見えて、結界の向こうでは几帳面に並べられ、畳まれ、物によっては香炉の上に軟着陸している。

「今日の勤めは終わりだからね」

キャスター・リンボの記録を有して現界したからには様々なことがあるだろうと思っていたが、白小袖姿で髪をおろした上に背伸びなどする安倍晴明を目の当たりにするなど思いもしなかった。

「客人の前とは思えぬ自堕落さでございますな晴明どの」

礼儀や作法から程遠い陰陽師の姿にはさすがに苦言の一つも呈したくなる。それに、客扱いされていないのは嫌でもわかる。客を引き止めたいからと言って結界で封じたりはしないものだ、常識的に考えて。

「長い付き合いだろう。大目に見ておくれ」

親しげに晴明は言うが、大目に見てやれるような付き合いではなかったはずだ。あまりに無防備すぎて呪詛の一つでも投げたくなる。投げたところで返されるだけなので実行はしないが。

「都合の良いときだけ付き合いの長さを持ち出すのはいかがなものかと」

寝台と結界のきわに形よく座った道満は尻尾を揺らしながら説教めいた言葉を口にした。

「まったくおまえはお堅いね。そんなところに座らずこっちへおいで」

横になった晴明が寝台を軽く叩いて道満を招く。位置にして胸から鳩尾にかけてのあたり。人間なら心の臓が、サーヴァントなら霊基があるとされている部位に近い。

「拙僧に害される可能性は考えておりませんので?」

念のために確認すると晴明はちらりと笑った。殺されるなど考えたことすらないだろう陰陽師に相応しい笑みだ。

「マスターが私闘を禁じてくれているからね。それに、私の工房でそんな無体はさせないよ。おまえだってそうだろう?」

「もっともでございますな」

晴明が再び寝台を叩く。道満が結界と寝台のきわで朝まで過ごしたとしても晴明は何も言わないだろう……おそらく、満足するまで部屋に閉じ込められるだけだ。

どうせ同じことになるのなら、早く終わらせた方が良い。道満は晴明が叩いたあたりまで歩みを進めると丸くなった。

「さて、何から話してもらおうか」

思案するような呟きと共に晴明の手が頭を撫でる。

「話すことなどないと申し上げておりますのに」

「そうだねえ……ああ、播磨国の話が聞きたい」

語る話などないと言っているのに晴明は諦めようとしない。実際、播磨国と言われても今の道満には語りようがないのだ。無い袖は振れない。

「拙僧は蘆屋道満のひとかけら、キャスター・リンボの成れの果て。そのような記録など持ち合わせておりませぬ」

丸くなっていた体を伸ばし、前足も伸ばして晴明の頬を軽く押してから道満は寝返りを打った。人であれば額を弾いてやったところだ。

「……ふうん。では、猫の話でもしようか」

晴明は背を向けた獣の喉を撫でながら気のない様子で呟く。

「猫、でございますか」

ずるずると引き寄せられて、気づけば道満は晴明の腕の中にいた。撫でられたり耳をつつかれたりと好き勝手に弄ばれているが、腹を掴んだり後ろ足の付け根を触ろうとしないあたり、晴明は猫の扱いをある程度心得ているようだ。

「昔、可愛がっていた猫がいてね」

「……初耳でございますな。そのような生き物、拙僧が見逃す筈ありませぬ」

晴明のそば近くにある獣など、呪詛の的に最適だ。外つ国の故事で言えばトロイの木馬の役を担ってくれる。生前の蘆屋道満がそこに気づかないはずがない。

「飼っていたわけではないからね」

「通われていた先の飼い猫とか?」

あっさりした返事に問いを重ねるとさらにあっさりした答えが返った。

「ああ、うん。そんなものかな……撫でると噛み、抱くと爪を立てる、けれど私の姿を探しては鳴く。そんな猫だったよ」

晴明の口ぶりに道満は違和感を覚えた。根拠はないが、虚実入り混じったように感じるのだ。あくまで道満の主観であり、晴明に問いただす必要も感じないので黙っていたが尻尾の先がぱたぱたと揺れてしまう。そんな動きに何かを感じたのか晴明が言葉を継いだ。

「ああ、私に限り。というわけではない。誰が撫でても噛んでいたし誰が抱いても爪を立てていた。触られるのが嫌な猫のようでね」

「可愛げのない猫ですな」

道満でも晴明相手に爪を立てずおとなしくできるというのに、誰彼構わずとは可愛げのかけらもない。率直に感想を述べると意外なことに晴明は可愛いとも、と断言した。

「私だけを探すところなど特に。それに、月のない夜に星を読む姿など佳い景色だった」

平安の世において、星を読む猫など聞いたことがない。猫だか何だか知らないが夜空を見上げる何かがいて、それを佳いと晴明は思ったのだろう。

「猫とは美しいものと定められておりますゆえに」

「それ」が何者であるのか。道満には関係ない。額面通りに話を受け取り、返すだけだ。

「……そうだね。美しかった。いつまでも探してもらえると思っていたよ、私は」

晴明の声に隠せないほどの哀切が混じる。可愛がっていた猫とやらは姿を消し、晴明はそれを惜しんだ。

蘆屋道満が二度と現れないと知った時、晴明は何を思ったのか。猫に対する思いの一欠片ほどは抱いたのか。

なんにせよ、アルターエゴとして成立した己に尋ねる権利はない。晴明もそれ以上は語らなかったので道満は黙って撫でられていた。

「おまえは撫でても噛まないね」

頭や額を撫でていた晴明の手がするすると背に滑る。

「カルデアではサーヴァント同士の私闘を禁じておりますので」

撫でるにしても毛並みを乱さず、かと言って軽すぎもしない力加減を悪くないと思っているから噛まないだけだが、正直に口にした途端に晴明の自信過剰な語りを聞く羽目になる気がしたので道満は建前を述べた。

「マスターの言いつけを聞く良い猫、というわけだ」

「晴明どのもマスターの言いつけを聞く良い狐、でございましょう」

揶揄するような口ぶりに道満は同じように返す。顔は見えないが微かな笑いが聞こえたあたり、晴明は苦笑いでもしているのかもしれない。

ほどよい暖かさと軽い疲れが眠気を誘う。晴明と会話を交わすぐらいならマスターと子どもたちにもみくちゃにされていた方が気苦労が少なくていい。あくびをしながら道満はそんなことを思い、寝台にあごをぺたりとつけて目を閉じた。

薄い瞼から透ける光が暗くなる。晴明が照明を落としたらしい。寝ようとする獣への配慮か単に眠くなったのか。薄目で部屋を見ると張り巡らされた結界が闇に浮き、まるで星の軌跡を描いているようだった。

遠い日の、蝕の夜に似て。

「……おまえ、抱いても爪は立てないのかい?」

晴明の静かな問いかけが落ちる。と同時に背を撫でていた手が尻尾の付け根を軽く叩いた。

「はてさて。そればかりは拙僧にもわかりかねます。何分、拘束だの捕縛だのされてばかりでございますし?」

それはすまないねと心にもない謝罪が聞こえる。顔を上げると晴明は笑っていた。こういう顔もするのか、と道満をして思わせる笑みだ。

だから、つい口を滑らせた。

「好く撫でてくだされば、爪も立てずおとなしく抱かれているやもしれませぬ」

尻尾の付け根を叩いていた晴明の手が止まり、息をつく微かな音が聞こえた。

「まったく、猫のくせに不埒なことを言うものではないよ」

「猫にそのような不埒な問いかけをなさることが間違っているのですよ」

「ああ、そうだね。そうだった。では猫らしく、おとなしく撫でられていなさい」

道満が言葉を返すと晴明は実に楽しげに言い、獣の狭い額に頬ずりをする。

暗い部屋にりん、と鈴の音が響いた。

 

「好い夜だ。星がよく見える。皆は不吉の兆しと畏れるけれど」

「月が翳れば夜は真の闇となりましょう。星の明りは地を照らすには遠すぎまする」

「闇の、どこが畏ろしいのだろう」

「闇そのものが畏れなのでございます……拙僧には理解できませぬが」

「私もだよ。気が合うね」

掠れ、消えかけていた記録を紐解き、道満は軽く頭を振った。隣では晴明が寝息を立てている。部屋の外も気配は絶え、カルデアは深夜とされる時間帯を迎えていた。

「晴明どの、晴明どの。寝台廻りの結界を解いていただけませぬか」

獣の前足で肩のあたりを揺すったり、鼻を顔に押しつけてみたりしたものの晴明が目覚める気配はない。喉笛を甘噛みしてみたが、頭を撫でられただけだ。

「まったく……」

何事もなく部屋を後にするのは無理だろうと薄々感じていた。己が水を向けたこともあるし、観念するしかないだろう。

鈴を鳴らして獣から元の姿に戻り、もう一度、変化を行う。

いつの間にか晴明が体を起こし、狐火を灯して変化術を行使する道満を眺めていた。

「晴明。これで良いのだろう?」

白と黒に分たれた長い髪に鈴を飾り、普段の道化めいた霊衣ではなく小袖を身につけた道満は晴明の向かいに座る。

「……そういえばおまえ、性別が定まっていなかったね」

ゆらゆらと浮く狐火に照らされた晴明は陰陽師としての顔をしている。道満の行使する変化術がよほど興味深いらしい。

上から下まで、不躾な視線に晒された道満は不機嫌に言い放つ。

「男の伽をする時はこの姿と決めている。気に入らなければ叩き出すがよい」

「いいや? 性別に拘りはないよ。でも気になるな……」

道満の言葉を言下に否定した晴明は寝台に流れる白髪の一房を手に取ると指先で弄ぶ。

「何が?」

「相手の意向を尋ねず女に変化する理由」

「ああ」

実のところ、半分ぐらいは叩き出されることを期待して女に変化したのだが、もう半分は先程述べた通りだ。

そう決めているからそうしただけ。

もちろん、道満なりの理由があるし晴明は理由が知りたいと言っている。特に隠すほどのことでもないので道満は正直に話すことにした。

「見下している癖に利用して、あまつさえ欲の捌け口にしようと考える男どもだ。儂に組み敷かれていい気分になるとは思えぬ。それと、諸々面倒でな」

「案外合理的だね。驚いたよ」

薄闇に見える晴明の表情は本当に驚いているようだ。陰陽寮に属し、強大な後ろ盾を持った陰陽師にはわからないだろうが、こんなことは合理的に片付けていかないとやっていられなかった。

「とは言え。望むなら元の姿で組み敷いてやっても良いが」

道満は心持ち晴明に顔を近づけて目を細めた。そんな気はないだろうが、念のために確認しておかねば後々面倒なことになる。

「それは遠慮しておこう」

思いもよらない問いかけだったらしく、晴明は何度か瞬きをしてからにこやかに道満の提案を却下した。

男とは得てして「そういうもの」ではあるが、それ以上に晴明が何者かを受け入れる姿が想像できない。

己の直感が当たっていたことに複雑な感情を抱いた道満は手を掴まれて我に返った。

「もうひとつ。あれだけ嫌がっていたおまえが伽をする気になった理由」

「……不粋な」

晴明の指が手に絡む。不粋極まりない言葉とは違い、繊細に触れるものだと道満は少し面白く感じた。

「好みはできるだけ多く知っておきたいと思ってね」

部屋に閉じ込めて誘いをかけて、応じなければ部屋から出られない可能性を疑わせる状況を作っておいて好みも何もない。相変わらず逃げ道を塞ぐのが上手い男だ。

……なりふり構わず逃げる方法などいくらでもあるのだが。

「不粋な男は好みではない」

「肝に銘じておこう」

「どの口がいうか」

あまりにしれっと言うので、道満は空いている手で晴明の頬を軽くつまんでやった。

よほど驚いたのか、晴明は目を大きく見開き、次に笑いながら頬をつまむ道満の手をとって抱き寄せた。

「で、その気になった理由は?」

本当の理由など答える気はない。全て詳らかにしたところで良い事など何一つないのだから。

柔らかく髪を梳く指の感触に目を伏せて、偽りの鼓動を聞きながら道満は呟いた。

「好く撫でればおとなしく抱かれているやも知れぬ、と言うただろう」

「ああ。なるほど」

「次は約束せぬぞ」

念のために釘を刺しておくつもりで言うと、すぐに返事があった。

「構わないとも。気が向いたら何時でもおいで。同じ屋敷に暮らしているようなものだから、私が通っても良いけれど」

淡々といつもの調子で喋る晴明は不意に黙り、道満の肩を強く掴んでから言葉を継ぐ。

「ただし、他の者と関係しようものなら容赦しないよ」

小袖越しに爪が食い込むほどの強さで掴まれた肩が鈍く痛む。殺意と色欲が紙一重のように、今の道満にとっては痛みと快楽も紙一重だ。後ろ暗い情欲を身のうちに感じながら道満は顔を上げた。

「これだから重い男は」

晴明は狐のように目を細めると道満を寝台に押し倒した。指が頬をなぞり、首を滑り胸を撫でて白帯を解いていく。

「おまえも大概だろうに」

からかうような晴明の言葉から顔ごと背けた道満の視界に結界の軌跡が映る。恐ろしく整ったそれらは美しさすら湛えて薄闇に浮いていた。

肌を滑る手の感触を感じながら道満はかろうじて手繰り寄せた記録を思い出す。蝕の夜、晴明は背後に立っていた。闇についてひとことふたこと語り、夜が明けるまで星を見ていた。

ただ、それだけだ。

「……晴明」

晴明の顔がふいと近づき、髪がはらはらと落ちた。何か? と掠れた声が道満の呼びかけに答える。

「猫は、おまえと星を見ていたかったのだろうよ」

「……知っていた」

素っ気ない言葉と共に狐火が消える。人の目には星のような結界の軌跡も闇に沈み何も見えない。

道満は静かな呪詛のごとき囁きに耳を傾けながら、晴明の背に腕をまわした。