陰陽師と化猫
時折、筆の穂先のような感触が喉元や肩のあたりをくすぐって離れていく。髪ではないだろう。もちろん何か道具のようなものを使っているわけでもない……晴明の両手がどこかに触れている時でも肌を掠めるのだから。
結界で閉ざされた中に動くものの気配は二つきりで、式神に類するものはいない。
妙な動きをするわけでもないので知らぬふりをしていればいいのだろうが妙に気にかかる。
投げ出していた腕を天井に向けて伸ばし、人差し指でくるりと円を描く。
しばらくして鬼火がひとつ、暗い空間に仄かな光をもたらした。
「おや」
心の臓辺りから顔を上げた晴明がにんまりと笑う。
「見られるのは嫌かと思ったのだが。それとも私を見たいのかい?」
「──」
「構わないよ。好きなだけ見るといい。私もおまえを見ていたいからねえ」
見上げる先には晴明の顔がある。いつもの涼やかな笑みではなく、獲物を捕らえた獣のように見えるのは、いつの間にか生えていた獣の耳も影響しているのかもしれない。
「……耳、が」
髪も白く長いものに変わっている。何かがちらりと脳裏をかすめたが、掬い上げる前にこぼれてしまった。
耳、と晴明は呟くと何事もないかのように頷く。
「事に及べば出るだろうよ。他でもないおまえが相手なのだし」
何か。なにかがあるはずだ。わかっているのにそれらは見えない。記録の内容如何に関わらず、蘆屋道満自身ががそうなのだろう。
「……生前のおまえは狐混じりの私と行動を共にすることが多かった」
目を細めた晴明はぽつりと呟くと身体を起こした。
「触ってみるかい? ほら、おいで」
晴明は猫か何かを呼ぶように寝台を叩く。音を集めるような動きを見せる狐の耳に惹かれて身を起こしたものの、道満はなんとなく近寄る気になれなかった。
「取って食ったりはしないからおいで。いやまあ、食うと言えば食うのか?」
下らないことを呟きながら首を傾げる晴明ににじり寄り、耳に触れるとああこれかと納得できる感触がある。つついたり掴んだりを繰り返しながら道満は言い訳でもするように呟いた。
「耳が触れて気になっていた」
「気が削がれるようなら前置きでもすればよかったかな……」
なぜか忌々しげに呟いた晴明が肩のあたりに額を押し付ける。
白い髪は絹糸のように滑るのに、耳の毛は少し硬い。耳だけが別の生き物のようだった。
「昔を覚えていなくても構わないのだけれど」
ぽつりと晴明が呟く。
「カルデアでの出来事は、退去するまで忘れずにいておくれ」
「忘れたらどうすると?」
狐の耳がぱたぱたと動いて頬のあたりを撫でた。
「それはもう。仕置きをせねばなるまいよ」
晴明は道満を見上げると、少し不思議な顔をする。
「……白い髪が少なくなっている気がするんだが」
「陰が現れればそうもなろう」
髪のひと房を手にして眺める晴明に呆れた思いで道満は返す。そんなことはもっと早く、たとえば、つまらぬ問答を交わしているうちに気づくべきだ。
「ふうん。合理的に陰陽を練り上げたものだね」
晴明は感心したように呟くと髪を放して道満の鳩尾から下腹にかけて指を滑らせた。
「おまえのことだ。胎も在るのだろう」
一瞬、腹を裂かれるかと思ったが何事も起こらず、指が子宮のあたりをくっと押す。
「……貴様であれば知っていようと思うたが」
面白い、愉しい、と言った心持ちになったのは久しぶりだ。それが生まれつきの体質であれなんであれ、蘆屋道満に関して晴明が見えぬ。という事実は非常に愉快だ。
「生前から陰陽併せ持っておったわ」
「何処ぞで仕込んできたのは知っているよ」
今更そんなことを、とでも言いたげな晴明の言葉に道満は笑みを抑えきれなかった。
「──胎が仕込んで根づくものかよ」
そう、告げた途端に晴明の表情が一変する。目に剣呑な光が宿り、きゅっとつりあげた口は耳まで裂けてしまいそうだ。
「おまえ。そういうことはもっと早くに言うものだよ」
「早くとは? 此処で顔を合わせた時か? それとも首を落とされた時か」
「千と七十年ほど遅いと言っているんだ。惜しいことをしたねえ」
笑みを浮かべた晴明は優しげに呟く。本当に、心から惜しいと思っているようだったので、つい尋ねてしまった。
「知ってどうする」
「四肢を落としてでも囲うとも。実に惜しい」
下腹を愛おしげに撫でながら事も無げに言う。その様子からすると本気だ。涼しげな顔をして、天上の青を宿した目で千里を見透す男の獣性を識る者は幾人いたのだろう。
「おお、怖。そうまでして儂に何をさせようというのか」
人ではない何かに変じかけていた道満をして晴明を化物と言わしめる所以は心の有り様だ。幾度も死を迎えたが、命を落とす瞬間の光景はいちどを除いて晴明の笑みだった。美しくも悍ましい何者かを常に見ていた。最期ですら、滴る夜露に幻を見た。
憶えている。安倍晴明は蘆屋道満を殺す度に笑っていた。
では何故、首を落とした夜は怖気を覚える程の怒りを湛えていたのか。
「仔を産んでもらうのさ。さぞ愛らしい仔が産まれただろうに」
「月の物などありはせぬ胎をどのように孕ませるのかは、興味深くあるな」
脳裏をよぎる記憶を振り払い、道満は陰陽師らしく呟く。死人を黄泉路から引き戻してみせた晴明なら機能せぬ胎にも命を宿すことができるかもしれない。産まれ出るモノが愛らしいなどと言えるかは別として、陰陽師として非常に興味深い。
「興味があるかい? 今からでも。と言いたいところだがお互い仮初の身、本当に残念だよ。折角女に化けてくれたというのにね」
下腹を撫でていた手が下に滑る。
「ああ、でも。仮初も悪くはない。誰も触れていないのであれば呪わずとも済むからね。カルデアでは何事もなくマスターに仕えたいと思うから、おまえ、誰彼構わず愛想を振りまくものではないよ?」
さらさらと下生えを弄びながら優しげに言うが、アルターエゴ・蘆屋道満に警戒心や敵意、もしくは害意を向けるものはいても好意など向けるものがいないとわかっているからこその軽口だ。晴明が本気ならこんな前置きなどせず呪う。
「此処で儂などに劣情を抱く物好きは貴様しか居らぬ。ほとほと呆れたわ」
嫌味と呆れを込めて言葉にすると狐の耳が道満に向けて動いた。
「そうかな」
晴明は下腹部から手を離すと腰に腕を回して道満を抱き寄せる。鎖骨のあたりにぬるりと濡れた感触が這い、続いて痛みが走った。
「……止さぬか。跡が残る」
肌を吸われる鈍い痛みと歯を立てられる鋭い痛みが先程まで撫でられていた下腹、特に奥へと熱を宿す。
「止せというのに!」
制止に耳を貸そうとしない晴明の肩を掴み、引き剥がすと晴明は笑っていた。
「──いい顔だね。先程までは反応が薄くて気がかりでねえ」
「は?」
「無粋だの重いだのと言われた挙句に閨でもつまらぬ男であった、なんて思われるのも癪じゃないか。何より、愉しくなければ次に続かないだろう?」
にこやかに言った晴明は道満を押し倒すと膝の間に身体を入れて視線を落とす。
「露出が多いのも困りものだね。どこに印をつけていいのやら」
重くのしかかる感覚が道満の全身に伝わる。動きを留めるだけの簡素な術式ではあるが、解除した上で晴明を止めるには時が足りなかった。
両足の間、常には無い裂け目に晴明の指が滑り、内へと潜る。
「──!」
引き攣れるような痛みを伴って指が沈む。我慢できないほどではない、が術式の解除をするには気が削がれすぎる。表の痛みであれば逸らす術もあるが、身の内の痛みは涙に変えるしかなかった。
それも昔の話。道満は涙のかわりに晴明を睨みつける。
「少し痛むだろうけど、すぐに終えるから」
申し訳ないとでも言いたげだが、指の動きは容赦がない。
唇を噛んで声を抑えていると粘膜の壁を探るように動いていた指がぴたりと止まった。
「ここにしようか」
目を細めて問いかけた晴明は道満の答えなど聞かずに空いている手を下腹に当てた。
「ひ……ぐっ……!」
ばちっ、と下腹を通して身の内、特に子宮へと刺激が走る。思わず背を反らせて声を上げた道満の頬に涙が伝った。
晴明は道満から抜いた指を舐めて目を細める。
「苦しい思いをさせたねえ。二度としないと約束するから、そう睨まないでおくれ」
その言葉と共に重くのしかかる感覚も、下腹部を巡る刺激も消える。
「……何をした」
敷布を掴んで殴りつけたい衝動を抑えながら尋ねると、晴明は少し考えて呟いた。
「虫除けだよ。おまえはああ言うけれど、私以外の物好きが現れては困るからね」
刺激は消えたが何かしらのまじないが胎のうちに在るのがわかる。腹立たしいのは、それが全く読めないことだ。解除するための綻びがなく、術式として完全な円として閉じている。
「おまえを損なうものではないし、無体も働かないと約束する。もちろん、蘆屋道満に限ってだけれど」
褥を共にするならば、裸で相対する必要がある。取るに足らぬ者を相手にするのであれば問題はないが、術者が相手となれば話は別だ。何を仕込まれるものかわからない、それは晴明も同じで、たとえば道満が胎に怨を詰めていれば只では済まない。
その辺りはお互い織り込み済み。といったところだが……信じろと言われるとは思っていなかった。
「──儂が、安倍晴明を信じられると思うてか」
見下ろす晴明を鼻で笑うと、まあそうだね。と納得したような呟きが返った。
「無条件に信じろというのは無理だろうから、私の名に懸けておこう」
実に軽く、無造作な言葉だった。一瞬、言葉の意図を図りかねた道満はのしかかる晴明を凝視する。
「……気でも狂ったか」
「狂ってはいないよ」
敷布を掴んでいた道満の手に手を重ね、晴明は耳元で諱を囁く。やはり静かな呪詛の如き囁きは、形のない何かに実体のないものを注ぎ、何かしらの形を作ろうとしているように感じる。
「だっておまえは、こうでもしないと私の言葉を信じない」
「信じるも何も──」
道満の言葉を最後まで聞かずに晴明が唇を塞いだ。口を開け、とでも言うように差し込まれた舌が上顎をぞろりと舐めて、道満の舌を掬い上げる。執拗な動きに誘われて舌を絡めていると、甘い唾液が混ざり、唇の端からこぼれていった。
果物の汁に似た甘い唾液を飲むと、軽い酩酊感が頭の芯を揺らす。
浮つく頭で悪くない、と思う。肌の温度も唾液の味も馴染みが良い。敷布を掴んでいた手を返して晴明の指に絡めると、思いがけないほど強く握り返された。
舌が離れて青い目が遠ざかる。手を離して息をつく道満の口もとを拭った晴明は、顔にかかる白い髪をかきあげた。
「好く撫でてあげるから、爪は立てないでおくれ」
耳元に熱い息がかかったと思うと耳朶を甘噛みされる。鈍い痛みと、時折触れる狐耳の軽く、くすぐったい感触に吐息をもらすと微かな笑いが聞こえた。
「……気に入ったものがあれば教えるんだよ」
「誰が……っ」
首筋を這う舌先に気を取られていると、左の乳房に晴明の手が触れた。撫でるような指先が乳首を捉えると軽く引っ掻いては弾く。むず痒く、僅かな痛みを伴って乳首が熱を持つ。
浅く、緩やかな呼吸に伴なう声に晴明の耳が揺れた。首筋から鎖骨を通り、乳房のあたりで顔を上げた晴明が聞いているぞ、とばかりに笑って右の乳房に食いついた。
赤子のように吸ったと思えば噛む。乳首にきりきりと歯を立てられて、思わず道満は晴明の肩を掴んだ。
「……跡をつけるなと、言うに」
「心得ているとも」
乳房から口を離した晴明は微笑んで言うと両の乳首を捻り上げた。
ひっ、と悲鳴とも嬌声ともつかぬ声が漏れる。
指の間で捻り潰すように乳首を弄びながら、晴明は眼を細めた。青い目に浮かぶのは嫌と言うほど目にした、人が有する欲の色だ。
「いいね。そんな目で見つめられるのは、初めてだ」
晴明は常日頃と変わらぬ様子で呟くと指先に力を込める。
「涼しげな顔をしておいて、手荒な……っ」
痛みが増すごとに陰は熱とぬめりを帯びる。それを知ってか知らずか晴明は少し考えて、乳首に爪を立てた。
背を仰け反らせた道満は唇を噛む。
「少しぐらい痛い方がいいと、おまえの身体が言うんだから仕方がない」
にいっと笑った晴明はようやく手を離して乳房に口づけてから道満の手首を引いた。
「そうだろう? 私も見ていて楽しいもの。ほら」
引かれるままに上体を起こした道満の手を自らの股間に導いた晴明は陰茎を握らせる。熱を持ち、怒張したものが手の中で脈打っている。
痛みもなく、触れられてもいないのに体の奥から滲む何かを感じながら道満は手を滑らせて形をなぞり、陰茎の先を指でくるくると撫でた。
肩に添えられていた晴明の手が動きに合わせてかすかに震えている。
「これも楽しいと?」
指先にまとわりついた粘液を舐めながら見上げると、珍しく頬を上気させた晴明がもちろんだとも、と掠れるような声で答えた。
唾液よりも味が強い。頭が痛くなりそうな甘さのようで、喉の奥に仄かな苦味が残る。何よりも魔力が濃い。分泌液程度でこれなら精液はどんな味だろうと心地よい酩酊感に任せて顔を近づけた道満を晴明が止めた。
「──楽しませてやろうと言うのに、何故止める」
「今日は胎に全部注いでしまいたい」
慈しむように道満の髪を撫でながら晴明はそんなことを言う。
「次を楽しみにしているよ」
次、と言われて道満は少し考える。次などあるだろうか。頭がぼんやりしていて、考えがまとまらない。鼓動は早鐘のようにうるさいし、体が熱い。喉が渇いて、再び寝台に押し倒された道満は離れようとした晴明の首に腕を回した。
「道満?」
何かを問おうとした晴明を引き寄せると噛みつくように唇を合わせる。誘うために伸ばした舌はすぐに絡め取られて、唾液が混ざりあう。まぶたを閉じると、感じるのは離れまいと絡む舌と柔らかな唇、それに、強い力で抱き返す晴明の腕だけだ。
欲しい、と思う。身の程知らずの望みなど遥か昔に諦めたはずなのに、今は欲しい。何が欲しいのかはわからない。けれど、渇いていて、唾液を飲み下す程度では満足できない。
晴明の脚に腰を擦り付けると、ぬるぬるとした温かいものが溢れた。
「──ああ、全くおまえという奴は!」
突然身体を離した晴明は唇の間に糸を引く唾液を切ると忌々しげに息をつく。
「もう少し慣らしてからと思っていたのに」
珍しく語気を荒げる晴明の表情は白い髪に遮られてよく見えない。ただ、足を押し開く手や、陰に当てがわれた陰茎の先端は晴明のものとは思えぬほどに熱かった。
ぐちゅ、と湿った感触が下腹部に伝わり、指とは比べ物にならない太さの陰茎が膣を貫く。指でかき回された時とは違い十分に濡れているとはいえ、異物が身体の内を押し開く感覚は痛みと微かな快楽を伴った。
下半身を押し付けて、しばらく動きを止めていた晴明は腰を引き、叩きつけた。
「あっ…あ、あぁ……っ」
内臓が突き上げられて、声が上がる。肉のぶつかる音に濡れた音。それに悲鳴と晴明の荒い息遣い。結界の中にはそんな音が満ちていく。
痛い。苦しい。欲しい。もっと欲しい……欲しかった。
手が届くのなら、この身など何度焚べても構わなかったのに。
「◾️◾️◾️◾️◾️──」
口をついたのは囁かれた諱だった。
「……何?」
腰を押し付けたまま、緩やかに揺らして中をかき回しながら晴明が問う。
痛みや苦痛が快楽に塗り替えられていく。息を吐くたびに高く甘い嬌声が漏れた。
「言って。私を呼んだだろう?」
耳元に唇を寄せて囁く晴明の息遣いが獣のように荒い。緩く動く腰に足を絡めて、道満は欲しい。とうわ言のように口走った。
眉を寄せて苦しげな表情をした晴明が喘ぐ道満を抱いて囁く。
「──私も欲しいよ」
浅い呼吸も甘い声も、何もかも食い尽くすように晴明が口づけた。膣を擦り胎を突く陰茎も、交わす唾液も絡める舌もまだ足りない。行き場のない腕を回し、晴明の白い髪を掻き乱しながら道満は快楽に溶けた頭で考えた。
どうして、こんなに欲しかったのだろう?
結界に甘く、血のような香りが漂っている。
道満の体液は血の味がした。錆びて甘く、劣情を誘う味と香りだ。
寝台に流れる黒と白の髪を掬いながら、横たわる道満の裸体をぼんやりと眺めていた晴明は今更、これは男共を狂わせる姿だと認識する。乳房は形よく手のひらに収まるほどで、赤く色づいた乳首は本来ならもっと薄い色なのだろう。清楚に見えて腹のあたりなどぬめるように艶かしく、瞼や唇に乗せた翡翠の差し色も肌に映えて美しい……先程まではそんなことを考える余裕などなかったが。
道満が使役する式神に射干玉の如き美姫がいると小耳に挟んだことがあるが、晴明は終ぞ目にすることはなかった。今にして思えば女に化けた道満の可能性が高い。
これからどう対処すべきかを考えた晴明は極力触れぬ方が良い、という結論に至る。今まで通りに遇すべきだろう……猫というのは気まぐれで、こちらが構えば一目散に逃げていく。生前はそれで何度も失敗している。閨に引き込めたなど奇跡に近い。それこそ千年に一度あるかないかの椿事だが、次は千年後にと言われるのも嫌だ。
本音を言えば閉じ込めておきたい。が、道満が姿を消した事を気にするサーヴァントがいなくてもマスターは間違いなく気にかける。あれはそういう娘だ。
軽い呻きと共に道満が身体を起こした。しなやかな肢体に長い髪が滑る。
「もう帰るのかい?」
朝と定められた時間には間がある。閉じ込めておきたいぐらいだから帰すのも惜しいが、引き留めて良いことなど何ひとつないと経験則でわかっていた。
「……結界が解けておらねば、帰るに帰れぬわ」
憮然とした物言いにそれはそうかと思う一方で、道満がこの程度の結界を破れないなどあり得ないとも思う。本当に嫌なのであれば腕の一本や二本、何なら命すら捨てて逃げる。それが蘆屋道満だ。つまり、道満は今の状況を不本意だと思っていない。
カルデアでそこまでの騒動を起こしたくないと考えている可能性も捨てきれないが……と考えていると白い手が腿に伸びた。
「貴様の結界など、そうそう解けるものでもなし」
呟きと共に甘い香りが強くなる。
「そうであろうよ。晴明」
手は腿を撫でて滑り、萎んだ陰茎を弄び始めた。撫で上げたかと思えば硬さを確かめるように掴んでは擦る。
「……そういうことにしておこうか」
晴明の言葉に目を細めて笑った道満は顔を寄せて誘うように唇を薄く開いた。誘いを断る理由などない。翡翠色の唇を吸うと待ちかねたように舌が絡む。その間も晴明を弄う手は絶え間なく動きを続けていた。いつの間にかぬめりさえ帯びた手が脈打つ陰茎を扱き、睾丸を転がす。
肩を抱き寄せながら強く掴むと、合わせたままの唇からくぐもった呻きを上げて道満が顔を離した。
肌を食いたい。歯形を残して悲鳴を聞きたい。痛みと快楽の入り混じった淫らな声を聞きたい。掠れた声で呼ばれたい。欲しい、と求められたい。
甘く、濃い香りの中、欲望に従って道満を押し倒そうとしたがぎゅっと睾丸を握られて晴明はびくりと動きを止めた。
「時間が惜しい」
道満は宥めるように言うと陰茎に手を添えて、ゆっくりと腰を落とす。
熱く、弾力があるのに柔らかな膣が陰茎を圧迫しつつ飲み込んでいく感覚は、目眩を覚えるほどに心地よい。艶かしいため息をついた道満は下半身を密着させたまま腰を揺らし始めた。
ごりごりと、中で子宮を押し上げている感覚が伝わる。痛みに快楽を見出す癖があるのに、強く突かれるよりも胎の奥を揺らされるのが好みなのは一度目でわかっていた。
気まぐれに腰を突き上げると、ああ、と後を引く声をあげて道満が身体をのけぞらせた。ぐちゃぐちゃと水音がして、甘い香りがさらに濃く、強くなっていく。耐えきれずに頭を抱え込むように抱きついた道満の肩に歯を立てると、高い悲鳴と共に膣が晴明の陰茎を締めつけた。
「……っ!」
理性を保つのは無理、と判断した晴明は己を律することをやめた。繋がったまま道満を寝台に押し倒して胎を突き上げる。
腕で顔を覆い、動きに合わせてあられもない声をあげていた道満が声にせずに晴明を呼んだ。
軽く達したのか、膣が軽く痙攣を繰り返している。一度、強く突いてから顔を覗くと上気した頬には涙の跡が残っていた。蕩けた視線で晴明を捉えた道満は、もっと、と囁いて腕を回す。
「……どれがいい?」
縋るように抱きつかれて晴明は尋ねる。もう一度強く突くと声をあげながら道満が僅かに首を横に振った。
「これが好き?」
膝を立てて道満の腰を持ち、上下に揺らすと道満は腰を反らせてさらに強く押し付けるように爪立った。
膣が陰茎を強く締めつける感覚と甘い喘ぎが晴明を追い立てる。腰に爪を立てるとひときわ甘くねだるような声が上がった。
「……き、──すき」
身体を揺らしながらの呟きは行為に対してのものだと理解はしているが、道満から好意を示す言葉など告げられたことがない晴明には心地良く響く。
腰を突き上げる道満の艶めかしい姿や蕩けた声に、耐えきれず晴明は精を放った。白い腹が射精の勢いにあわせて震え、痺れる陰茎に熱く融けた膣壁が絡みつく。
呻きを噛み殺していると、途切れ途切れに声をあげていた道満が最後の射精に腰を震わせて晴明を見た。
たまらないほど、好きだ。
持ち上げていた腰を下ろして、体重をかけるように体を重ねると道満を強く抱きしめる。深い、深いためいきが晴明の耳を掠め、道満は濡れた瞳を閉じた。
──朝が来る。惜しいが帰さねば確実に次はない。
道満から離れ、結界を解除しようと伸ばした晴明の指が止まった。
頭の芯がすっと冷えるような感覚と共に獣の聴覚が消える。顔にかかる髪も黒い。甘い香りも感じない。
背後から白い腕が首に絡みついた。
「……晴明」
蠱惑的な囁きと共に柔らかな胸が背に押し付けられたが、面白いほどになにも感じない。
「何か」
触れることすら煩わしく思えて、晴明は術で白い腕を弾いた。
悲鳴と共に背後で倒れ込む気配がする。
「非道い事を。睦み合った仲ではございませぬか」
「身に覚えがない」
心底嫌々向かい合うと、そこには見知らぬ女がいた。目鼻立ちは道満に瓜二つだが、少なくとも晴明が望んで抱いた者ではない。
あれを、蘆屋道満とは呼びたくない。
「……おそろしい顔をしておいでですねェ」
女がにやりと笑った。
「それはもう。興が削がれたどころの話ではないからね」
これが道満の霊基でなければ、会話を交わす暇も与えずに封じるか滅している。偶然か意図的にかは不明だが、蘆屋道満が霊基の支配を手放した状態であると晴明は推測した。
「でしたら手加減など覚えては如何です? いつもいつもいつまでも! 道満を限界まで追い詰めるのは貴様であろう!」
不意に激昂した言葉と共に女の顔が歪み、何事もなかったかのように穏やかに笑う。
「──だから、首を落とさねばならぬところまで行き着いてしまったのですよ」
哀れですねェ、と嘲るように嘆く声が聞こえたが聞く気はなかった。
「蘆屋道満に手加減などできるわけがない。それと、首の話に触れるなら、それ相応の覚悟をするんだね」
晴明は女の下腹に視線を定め、指を掬い上げるように動かしてから拘束の呪を女に投げた。寝台に女が押し付けられるのと、青白い円が晴明の手の中に出現したのはほぼ同時だった。
腹立たしい。
「カルデアのマスターに任せるが筋。手は出さずにいたが、許されていれば八つ裂きにでもしてやったものを」
圧にひしがれた白い体がぎちぎちと震えている。
「……っ、はは、ははははっ! できるものか。蘆屋道満の肉体を裂くなど貴様にできるものか!」
「できるとも。首を落としたのだから」
淡々と呟きはしたが腹の中が煮えくりかえるようだ。非常に腹立たしい。腹立たしくて、思い出したくもないことを思い出してしまう。怒りに任せて手の中にある円を元に手繰り寄せる。
手応えが重くなるとともに女の顔から血の気が失せ、苦痛の呻きが洩れた。
「道満に免じて封じはせぬ。失せよ」
「き、さま。何を、この胎に……入れた……」
「私の精に決まっているじゃないか」
円を握ったまま腕を引き寄せると耳障りな絶叫が響く。
動きを拘束したはずの手が苦痛に耐えるように重く、緩慢な動きで寝台を掻いた。
「──など、は」
地を這うような声だった。
「捨てよと、言うた。のに」
手の力を僅かに緩めると太い、男の怒号が響いた。
「過去に思いを残す限り、勝てぬと言うたのに! 全て捨てよと言うたのに、何故、捨てぬ……それだから、たかが笑みひとつに絆されるのだ。聞いておるか、道満!」
悲痛と言っていい叫びだが、晴明には何ひとつ響かなかった。ただ、得るところもあった。その礼として、声をかけた。
「何人にも変えることができぬ結末がある。道満に定められたそれは、過去を捨てたところで変えられるものではない。私にしてもそうだ。そのように終わらねば夜は明けぬと定められた。過去を捨て思いを捨て、何もかもを台無しにしてまで出現したおまえでさえ変えられぬものを、宿命と言う」
返答はないが、黒い瞳が爛々と輝き、凶悪な表情が浮かんでいる。できれば、そんな顔をしたかったと晴明は思う。
「──私は、蘆屋道満の命脈を絶たねばならぬ宿命を観た。だが、首を落とすなど、観えなかった。いいかい、蘆屋道満は安倍晴明によって傷つき貶められ、狂い堕ちるべきであり、他者の言葉で堕ちるべきではなかったのだ。喜ぶがいい、キャスター・リンボ。貴様はその一点において、確かに私に勝っていた」
手に力を込めてさらに引くと強い抵抗があった。同時に断末魔のような絶叫をあげて白い体から力が抜ける。
晴明が手を開くと青白い円は女の下腹部に沈んで消えた。
深々とためいきをついて、視線を伏せてしばらく……白い体がぴくりと動いた。視界の端でゆっくりと体を起こし、汗を拭っていたかと思うと近付く。
「……酷い顔よな、晴明」
揶揄するような呟きに視線を上げると、道満が笑みを浮かべていた。
「何を言われたかは知らぬが、相当に堪えたようで何より」
晴明は目を閉じ、呼吸を整えて目を開くと上機嫌に笑う道満に問う。
「意趣返し、というところかな?」
然り。と頷いた道満は円が沈んだ下腹に手を当てて撫でた。
「断りもなく胎に何事か詰めおって。まあ、先程の顔に免じて許してやろう。諱も預かっておることだし」
「──法師どの」
うっすらと歯形が残る肩に額を乗せて、晴明は昔のように道満を呼んだ。ほんの少し、甘えたかった。
「宿命について、法師どのの見解をお尋ねしたい」
は? と呆れたような呟きに続き、いくつかの悪態が聞こえる。その後に、翡翠色の指先が晴明の手に触れて軽く撫でた。
「宿命とは、有為転変成らぬもの」
ごく短い一言を呟いた道満はしばらく黙っていたが、晴明の頭を押しのける。
「これで満足か?」
「……ええ」
晴明は道満に背を向けると自律していない結界を解いていく。術式に向き合っていると散乱した感情が収まり、平静を取り戻すことができた。まさかカルデアでリンボと向き合う事になるとは思わなかったが、道満らしい報復だとも思う。的確で絶妙な嫌がらせだ。
──やはり、蘆屋道満はこうでなくては。
奇妙な喜びを噛みしめていると背後で鈴が二回、鳴った。
寝台は軋んだというのに、重さのない者のように床に降り立ったのはアルターエゴ・蘆屋道満の道化めいた姿だった。
「それでは、おいとま致します」
感情を消した、整った顔立ちがちらりと晴明を見る。
「またおいで。待っているから」
心底嫌そうな顔をした道満はためいきと共に扉まで歩くと、何気ない手つきで符をはがして晴明に投げた。
ひらひらと舞った符は晴明に届く前に燃え尽きてしまう。
開いた扉から薄明るい光が差し込み、道満は通路へと歩み出る。
「──気が向けば、な」
長い髪の先が部屋から去る瞬間、そんな呟きが聞こえて、晴明は静かに笑った。