いつか彼方で

あるじから承っておりますと童は呟くと踵を返した。人気も火の気もない、冷たい空気だけが漂う邸内には何もなく、一人分の足音しか聞こえない。

「こちらでお待ちください」

蔀戸を開け放った先に見える景色は都ではない深い夜と月だ。いつのまにか灯された火が微かに揺れている。

ここを訪れたのは自分にしては珍しい感情の現れであると理解している。

余人には理解不能な光景の中で生きる自分と歩んだ、ただひとりの人であった。出会った頃から変わらぬ人であった。

騒がしく物静かに笑い、酷薄に哀れと涙を流す人であった。狂い落ちながらも歩み続けた人であった。

「お待たせいたしました」

声と共に瓶子と杯が供される。

「饗応を受けるつもりはないのだが」

「あるじより失礼のないように、と言い付かっております」

「……あるじどのは今、どちらに?」

麗しい顔、という言葉が相応しい童は笑み一つ浮かべずに平伏した。

「貴方さまであればご存知でありましょう」

「それはどうだろう。いかな私にも知りえぬことはある」

「存じている、とあるじは申しておりました」

平坦な声音で童は言うと、顔を上げぬまま言葉を継いだ。

「あるじより、言伝を申し上げます。留守ゆえ、十分な饗応もできず心苦しく思います。鄙びたところではございますが、心ゆくまでご滞在下さい、晴明どの」

童の言葉に聞き慣れた声音が重なったかと思うと、平伏した童は黒い炎に溶けた。

後には白い紙を切り抜いたひとがたがひらひらと落ちる。中心に描かれた禍々しい眼は今もなお、こちらを見ているようだった。

ひとがたを拾い上げた指が描かれた眼に触れる。ぬるりとした感触に指を見ると、たった今傷口に触れたかのように赤く濡れていた。舐めると血の味がする。

「信頼は嬉しいけれど……はは、これはしてやられた……」

わかるのは、今生で再会叶わぬという事実のみ。

「……いずれ、彼方で」

 

蘆屋道満と呼ぶ者もいればリンボと呼ぶ者もいる。ひどいところになると外道と呼ばれることすらある。

現界に際して有した記録からすれば無理もないと思う。マスターのように平然と受け入れるほうがおかしい。

もっとも、己もおかしなことになっているが。

異星の神とやらが召喚した「自称」キャスター・リンボをカルデアが観測し、縁として召喚された結果リンボとも蘆屋道満ともつかないアルターエゴが現界している。

リンボほどひどくはないが、生前もそれなりにおかしくなっていた自覚はあるので自己否定や矛盾に苦しむことがないのは幸いだった。あの状態が進めばリンボと似たり寄ったりの外道に成り果てただろうから、それもありだろう、ぐらいにしか思わない。

古今東西の英霊が集い、汎人類史最後のマスターを擁するカルデアは食事が美味で、妙に書籍が充実している。そんな場所だった。訳ありの英霊も属しているが、敵対した記録があるからと言って凍結処理をされることもない。今、付いている監視はカルデアの首脳陣及びマスターが命じたことではなく英霊個人の行動だ。

やましいところは何一つないため監視されても構わないしマスターに対して好意を抱いているキャスター・リンボが何をするかおおよそ理解はしているので抑止となってくれるのであればありがたい。ただ、蘆屋道満としては私室以外での行動が視線に晒される上に対価も生じないというのは少々業腹でもある。

なのでシュミレーターに「逃げる」口実の一つとして使用している。マスターが監視にいい顔をしていないことも有利に働いた。

様々な地域に足を運んだが今日は生前に歩いた街並みとよく似た景色が広がっている。ひとつ、異なるのは巨大にそびえる禍々しい樹のような物体……キャスター・リンボが破壊しようと企んだ平安宮がシュミレーター内に再現されていた。

何をするわけでもなく、屋敷のひとつに上がり込む。時々はプログラムされたエネミーと戦い、いくばくかの素材を持ち帰ったりもするが、それはあくまでもおまけだ……仮想空間だというのに魔力を帯びた物体が入手できるというのはおかしな話だが、そこは考えないことにする。

庭を眺めたり式を飛ばして遊んだり、ひとがたを作ってみたり。誰に邪魔されることなく過ごす時間は、生前最期のひとときを思い起こさせた。

……死ぬには、相当な準備が必要だった。そんな体になってなお、アレには敵わなかったのだ。

シュミレーターで再現された偽りの平安宮で、往時をつらつらと思い返す。

楽しかったのだろうか。悔しかったのだろうか。憎かったのだろうか。嫉妬だろうか……どれもが違うように思えたし、正しいように思えた。

アレを打ち負かしたとして、何が欲しかったのだろう?

かつても今も明確にある何か。キャスター・リンボと成ってなお、消し去れなかった存在。蘆屋道満が蘆屋道満である確固たる理由。

いつまでも、永劫と付き纏う。

離れる背に追い縋り囚われ続け、ついに追いつけなかった。

頬を濡らす雫は一つの答えに思えたが、あえて考えはしなかった。

 

「……で、道満法師はどちらに? いや、私が召喚されたとなれば一悶着あるだろうに、あまりにも静かなものだから……そんな場所があるのですか。干渉は可能ですか? ああ、呼び戻す方ではなく、はい。いえ、一人で参ります」

「余人がいては、わかるものもわかりませぬ」

 

どこかで鈴が鳴った。干渉されている証左だ。管制室であれば通信を飛ばせば良いだけの話だから、マスターではない。誰だか知らぬがモニターだけでは物足りないとはなんとも欲深い。

そんなことを考えた瞬間、背に冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。覚えのある感覚だ。こんなことなら式など走らせるのではなかった。

見つからないようにシュミレーターから出るのは構造上不可能、仮想構築された民草に化けるのはさすがに無理、となれば知らぬふりを決め込むしかない。

ひたひたと気配が近づく。

「相変わらず、厄介な」

いつ覚えたのかも定かではない変化の術を行使する。低くなった視界と小さな手からすると童にでも化けたのだろう。こんな見掛け倒しの術で騙せる相手ではないとわかっているが、マスターすらいない空間で顔を合わせたくなかった。

訪いの声が屋敷を巡る。

無人を装うのは無駄だとわかっていた。隠蔽してもたちどころに見抜かれてしまうし、燻り出すために屋敷中に式を放ちかねない。

逃げ場が残されているようで、思い通りに動かされている。数え切れないほど同じ状況に置かれた記録がまたか、と歯噛みしている。

「……何用でございますか」

殺せるものなら殺してしまいたい。そんな思いを胸に道満は門を開けた。

「あるじどのはご在宅だろうか」

はたして、門前に立つのは生前と寸分違わぬ陰陽師であった。ただ、なぜか……妙に視線を感じる。目の前に立つ童が蘆屋道満だと見抜くぐらいはしているだろうに、妙な態度だ。

「不在です」

「……待たせてもらっても良いだろうか」

「見も知らぬ方を屋敷に上げてはお叱りを受けてしまいます」

「あるじどのとは長い付き合いになる。貴方が叱責を受けることはないと保証しよう」

長い付き合いなのは確かだ。千年先でさえ、こうして顔を合わせているのだから。それに、門を開いた時点で招き入れるしかないのだからこれ以上の押し問答は無駄だ。

……シミュレーターに立ち入ったということは、カルデアに召喚されたということでもある。マスターが絶対に召喚するのだと息巻いていたので密かに召喚失敗を願っていたのだが、大々的な祈祷でもしたほうが良かったのかもしれない。

陰陽師を屋敷に招き、庭に面した座敷に案内する。

「しばらくお待ち下さいませ」

「留主の間に訪れた客にもてなしなど不要です」

饗応の準備をすると口実を作って逃げようと思ったところにこれだ。これだから千里眼持ちは嫌になる。と口にはできず、かと言って顔に出すわけにもいかず、道満はさようでございますか、と返すに留めた。

「かわりに……そうですね。あるじどのが戻られるまで、私の話に付き合ってくれませんか」

「…………はい」

本当はものすごく嫌なのだが、断ったところで別の言葉が飛んでくるだけだ。前触れもなく式や使い魔が飛んでくるよりもいいと自らを慰めて道満は陰陽師から少し離れて座った。

「長い旅に出ていましてね。ようやく都に戻ったところです。あるじどのがこちらに居を構えたと偶然耳にしたものですから、取るものもとりあえずお伺いしたという次第で」

無理を言って申し訳ない、と陰陽師は軽く頭を下げた。

はあ、と生返事を返す童に陰陽師が微笑む。

「旅に出る前に暇乞いをと思ったのですが、あるじどのは私よりも早く、挨拶もなく旅立ってしまわれた。まったく薄情なお方だ。せめて顔なりと見せていただければ、このように押しかけずとも済んだのですが」

何を言っているんだ、と怪訝に思ったのも一瞬。「最期」の話だと気づいた道満は心底呆れた。化けていなければため息の一つや二つぐらいついただろう。かわりと言ってはなんだが、嫌味を言うことにした。

そもそも薄情とは?

「……貴方さまがあるじとどのような友誼を結んでいたのか存じませぬが、何も言わずに旅立ったのであればそれだけの仲、ということかと」

これから死にます。と挨拶をしなかったから薄情? 何を思っているのか理解ができないしこちらを責める口調なのも納得いかない。しかも生き死にを気にかける間柄ではないし、どちらかと言えば殺すか殺されるかの間柄だ。道満は今の今までそう思っていた。

「これは手厳しい。花のごときかんばせに似合わぬ辛辣さだね」

「失礼いたしました。あるじに似たのでございましょう」

「たしかに似ている。私はあるじどのの幼い頃を知らぬが、貴方のようなうるわしい童であったのだろう」

道満はひたと向けられる眼差しから目をそらす。

「さあ。あるじは昔を語りませぬ」

「私があるじどのと初めて会ったのは、貴方と同じぐらいの年だった。播磨国からいらしたとおうかがいした覚えがある」

道満にとっては年端もゆかぬ童に手も足も出ないほど打ち負かされた屈辱の思い出でしかないのだが、陰陽師はどこか楽しげだった。それは相手の古傷を抉る楽しみではなく、純粋に自らの過去を楽しく紐解いているように見えた。

ふと、疑問がよぎる。

陰陽師は、蘆屋道満と名乗る法師と敵対している間、何を思っていたのか。国家を転覆せしめんとする朝敵、陰陽寮の敵、取るに足らない術師……

「それはうるわしいお姿でね、鄙には稀なる、というのはああいうのを示すのだと今も思う。おかげで手加減を忘れてしまったが、さぞ可愛げのない童と思われたことだろう」

可愛げどころか、一生引きずる羽目になったのだがそれは置いておく。長い生涯で散々思い返した傷の一つだが今はそれどころではない。

この陰陽師は、一体何を考えている?

「それからの付き合いだ。あるじどのとは昵懇の間柄といっても良かったが……先に話した通り、別れの言葉もなく旅立たれてしまった。ついに嫌われたかと落胆していたところに知人からあるじどのが文の一つもないと嘆いてらっしゃると聞いてね。私は嬉しかったのですよ」

うっすらと浮かぶ笑みが陰陽師の整った顔を美しく彩っている。それはいつものことだ。問題は、どう考えても相手を間違えているのではないかと思われる言葉の数々だ。千年ぶりに顔を合わせた怨敵が唐突に睦言を語り始めたら誰だって困惑する。

頼むからよそでやってほしい。

「……人違いではございませんか?」

混乱しつつ口をついたのは嘘偽りない言葉だった。どこぞの姫か武者であってほしいと思うが、播磨国出身で幼少期の陰陽師に敗れた過去を持つといえば蘆屋道満が真っ先に挙げられるだろう。

「まさか。この私が人を違えるなど」

ひそやかに笑った陰陽師は道満に向けた視線をふいにそらし、庭に移した。

「まあ、そういった話を耳にするにつれて、これは直接お会いせねばならぬと思いました。旅立つ前は私もあるじどのも忙しい身でしてね。言葉を交わすことも少なくなっておりましたし」

庭先からは捻じくれた大樹が見える。

「……旅先で、良くない者に惑わされたとも聞き及んでおります。私以外の言葉に耳を傾けるなど、我慢のならぬ話です」

陰陽師は「蘆屋道満」について語っているとしか思えないのだが、当人としては困惑するしかない。これではまるで、恋人に不義理を責められているようではないか。

蘆屋道満は陰陽師を恋人にした覚えなど微塵もない。

「やはり、人違いかと存じます。どうぞお引き取りを」

困惑しつつ、視線から逃げるために平伏した道満に笑い声が降り注ぐ。

「貴方を見紛うなどありえない。童姿には多少面食らったが、最期に見せてくれた式とよく似ている。あれは貴方の幼少期を模した形でしたか、道満どの」

正体も割れている以上、会話を交わしたところで苛立ちが募るだけだ。わかってやっているだろうとは思っていたが本当に。

「……あいも変わらず、性格の悪い!」

童の姿のまま叫ぶと道満は陰陽師から逃げようとした。が、手首を掴む繊手に身動きがとれない。なりふり構わずに振り仰ぐと陰陽師は涼しげに笑っていた。

「そう言わずに、昔話に付き合ってはくれないか」

「嫌ですねえ」

変化を解こうとしても何かに抑えられているようで解けない。どう考えても陰陽師の仕業だ。

「つれないことだ。こうしてわざわざ出向いたと言うのに……ねぎらいの言葉ぐらいあっても良いのでは?」

「……寝言は寝て言うとよろしい」

「共寝してくれると言うのですか。それは願ってもない」

会話を交わしつつも見た目から想像もできない力で引き寄せられる。あらがってはみたが、変化を解けない上に力も抑えられてしまったようで、大した抵抗にもならなかった。

「……いい加減にせぬか、晴明!」

ついに抱きすくめられてしまい道満はたまりかねて叫んだ。童のように暴れてみたものの、陰陽師は幼な子をあやすように道満の髪を撫でるだけだ。

「ようやく名を呼んでくれたか。話をした甲斐があった」

道満は著しく困惑していた。

生前から化物だと思っていた。人から離れつつある己をして、化物と思わせる何かが安倍晴明にはあった。どこまでも人間から離れられない自分とは異なり、どこか違うところに心を置いているようなところがあった。

人ではない者の血を引いているから、程度の話ではない。混血なら平安の闇に掃いて捨てるほどいた。そんな事実では説明にならないほどの違和感を道満はずっと感じていた。

その化物に、どうして身に覚えのない不義理を責められ、抱きしめられなくてはならないのか。

夢なら覚めてくれと道満は心底願った。

「……年長者の務めとして指摘いたしますが」

変化の術は解かない、シュミレーターから逃げない、を条件に晴明の腕から逃れた道満は心持ち距離を置いて居住まいを正す。

「それは勘違いというものですな」

「千年近く考えての結論を、勘違いだと断じられるのは心外だね」

「千年と軽くいいますが、現世がここまで様変わりするだけの時間でございますぞ。時が経つにつれ思い込みやら幻想やら幻覚やらが募り勘違いしただけの話でしょう。まあ? 拙僧の見目が良いからそこまで夢を見たと言われると大層申し訳なく思いますが」

「ああ、そこは否定しないでおこう。そうそう、髑髏烏帽子なんとかとかいう悪趣味な装束、黒と赤が良く似合っていたよ。私としては抑えた色が好みだけどね」

「人の趣味に口を挟まないでいただきたいのですが」

「……あれは、どこぞの大莫迦者の趣味だろうに」

軽くため息をついた晴明はわずかに苛立ちの表情を浮かべた。この男も苛立つことがあるのだと、道満は珍しく思ったが苛立ちの色はすぐに消えた。

「残念ながら、こればかりは引き剥がせぬようで。何しろカルデアと縁を結んだのはキャスター・リンボであるからして」

「その名は聞きたくないね。少なくとも、余人を交えぬ時ぐらいは」

「……拙僧がキャスター・リンボではない、と言う保証はどこにもないのでございますぞ? 晴明どの」

晴明はリンボの存在がよほど面白くないのだろう。あからさまに嫌そうな気配を見せるものだからつい、リンボのように振る舞ってしまった。特に効果がなさそうなのが残念だが。

「混じっているのは確かだが、主人格は蘆屋道満だね。そうでなければ口説こうなどと思わないよ」

言下に言い捨てた晴明だが、恐ろしい妄言が叩きつけられた気がする。道満はあえて聞かないふりをした。

「ンンッ……その根拠は?」

「言ったろう。この私が、蘆屋道満を見紛うはずないと」

「根拠になっておりませぬが」

「あのね」

突然砕けた口調になった晴明は道満に向けてなにかを無造作に放った。

はらはらと白いかけらが舞い落ちる。

「長年共に歩んだ者を見紛うほど薄情ではないよ、私は」

「………………は」

雪片のように舞うかけら越しに見る晴明は笑っているようにも怒っているようにも映る。夢のような美しさ、ではあるのだが道満は全く違うところに心を奪われていた。

聞き間違いでなければ晴明は共に歩んだ、とか言っていたがどう考えても間違えている。席を同じくしたこともあるにはあるが、敵対した時間のほうがはるかに多いのだから。

「何と申されたか」

「そんなに薄情に見えるのか、と」

「薄情なのは今に始まった話ではなかろう。もう少し前よ前」

ああ、と晴明は軽くうなずくと口を開いた。

「共に陰陽の術を研鑽した仲だと言った方が良かったか……なるほど、心のうちにある思いを形にするのは難しい」

今この瞬間、道満は蘆屋道満として召喚された己を激しく憎んだ。これがキャスター・リンボであれば、というか自分が聞きたくなかった。自分でないいずれかの影が聞く分には問題ない。座には記録として残されるだけだし、困惑を超えて恐怖すら覚える事態に直面するのは他の自分だから。

道満は初めて安倍晴明から逃げたくなった。少しは憤ったりもしているのだが、そんなことはどうでもいい。

「……共に研鑽とかしておりませぬが???」

道満がかなり強めに否定すると、今度は晴明が解せぬ、という表情を浮かべた。

「化かし合いとか呪術決戦とか嫌と言うほどやったのに?」

「拙僧には安倍晴明を陥れる目的しかなかったが? むしろそれ以外に何があると?」

雪片がうっすらとした色を帯び、まるで梅の花弁のように変化していく。視界に入るそれらは、かつて生きた都の春を思い起こさせた。

梅の花越しに晴明は沈黙している。ようやく納得したかと安堵したのもつかの間、晴明は口を開いた。

「私を陥れることがおまえの目的なのは理解していたとも。だがね、この私に真っ向から術を仕掛ける技量の持ち主がおまえしかいなかったことは確かだろう?」

「それはもちろん」

邪道、外法と罵る者がどれほどの術を見せてくれたというのか。相対する価値のある者がどれほどいたか……誰に何を言われようが、晴明以外に後塵を拝することはなかったと自負している。

つまるところ、道満にとって晴明は「ただひとりの人」だ。だからこそ、蘆屋道満はねじれ狂ってしまった。

そして、己と同じ思いを相手に求めることがどれほど無為であるかも道満は知っている。

「おまえがいたから、私は一人ではなかった。目的がどうであれ」

だと言うのに、生涯手が届かなかった陰陽師は平然と告げる。淡々とした言葉が強い説得力を持つのは、真実を語っている証拠だ。

孤独など慣れてしまえばどうとでもなるというのに、化物のような男は慣れることを良しとしなかったのだろう。非常に認めたくはないが、そういった人間臭い弱さはアルターエゴ蘆屋道満の好むところでもあった。言葉巧みにつけ入り、揺さぶり……壊れてゆく様は儚く悲しく美しい。

ただし、安倍晴明は別だ。端然と座す陰陽師は壊れるほど弱くない。

「貴方さまには多くの人が傍に居たというのに。呆れたことを」

「そうだね。私はおまえほど性悪ではないし、常識を弁えていたから」

「ほう、どの口がいいますか」

「本当のことだろう。それにね、人に囲まれていても一人なのは変わらない。憎悪だの嫉妬だの、さほど重要ではないよ。おまえが居たという事実に比べれば」

生前、道満から見た晴明は手に入らないもの全てを有した陰陽師の頂点だった。アレがいなければ、と何度思ったことか。

道満が持てぬもの全てを所有し、望まれ、応え続けた陰陽師。どうあがいても手が届かないと理解してなお、諦められなかった。そして道満は孤独に慣れ身も心も化物のごとく変じていった。何をしてもアレになれないのなら何も……誰も必要ない。

「孤独など我ら化物にはつきものであろうに。何を今更」

晴明が訴える孤独など、道満にとってはとうの昔に過ぎ去った感傷だ。だからこそ、そんな呟きが漏れた。

「そう。我らにはつきものだ。我らには、ね」

ことさらに我ら、と強調した晴明は軽く手を振った。風に吹かれたように梅が消える。

「私にはおまえしかいなかった。おまえにとってもそうだと思うのだけどね。違うかい?」

「業腹だがそこは認めましょう。ですが覚えておいでか? 個人に執着するのは悪い癖だと拙僧に告げた言葉を」

「もちろん」

「その言葉、そっくり返してさしあげる」

晴明は何度か瞬きをして、まじまじと道満を見た。口もとには苦笑めいた笑みが浮かぶ。

「おまえほど拗らせてはいないよ」

「死後に口説くあたり、また違う拗らせ方でございましょう」

正直な所感を述べただけだが、明らかに苦笑しているところを見ると自覚はあるらしい。散々振り回されたがようやく一矢報いることができた気がして道満はわずかだが溜飲を下げた。

晴明は苦笑いを浮かべて黙っていたが、思い出したように口を開く。

「今回は色々と特例だからね。英霊が一人のマスターを楔として一つところに集うなどそうはない。おまえとはクラスが被るからお互い英霊として出会うのは難しいだろう? いい機会だと思ってね。記録が残れば座に介入する隙もできるだろうし」

世にも恐ろしい言葉を道満は聞き逃さなかった。できれば聞き逃したままでいたかった。

「座にまで押しかけるのはやめていただきたい」

座の本体が知ったら自害しかねない。誰にも考慮されたことはないが、蘆屋道満はこう見えて繊細な心の持ち主だ。

「千里眼などあると中々忙しくてね。たまにはおまえと術比べなどして息抜きをしたい」

「……拙僧は静かに暮らしたいのですが」

深々とため息をついた道満の言葉を聞きもせずに晴明は話の矛先を変えた。

「そういうわけだよ。あとはまあ……我らがマスターのこともある」

「マスターの?」

不意に飛び込んできた第三者の存在にさすがの道満も居住まいを正す。ちょっとからかったり翻弄してみたり誘惑してみたりしたが、重要な存在なのは確かだ。リンボの記録を通して知るマスターのひととなりには好感が持てたし、必要であれば霊基の消滅を厭わず守る程度はするだろう。

「彼女をずっと見ていたが、実におまえ好みの人間だ。人理のために召喚されたことは疑わないけれど、悪戯心を抑えられず手を出されては困る。だから口説いている。私の相手であればさすがのおまえも手一杯だろう?」

マスターの存在を持ち出されては道満もとやかくは言えないし、今の監視以上に抑止が効くのであれば悪くない……問題は、牽制力が強すぎることだが。

「すでにいっぱいいっぱいでございますな」

現に会話を交わすだけでも退去したくなったり現界を後悔したり過去の己を振り返る羽目になっている。これが純粋に敵対しているならまだいいが、晴明ときたら口説いていると明言するから始末が悪い。

手玉に取るのが楽しいのに、手玉に取られて楽しいわけがない。憮然とする道満に気づいたのか晴明は目を細めた。

「それでいい。蘆屋道満は安倍晴明の言動に一喜一憂して、たまに大暴れしていればいい。ついでに臥所に侍ってくれても構わない」

何もかも良くないが、考え方を変えれば概ね生前と変わらない。ただ、臥所に侍るのは流石に嫌だ。

「お断り致します」

きっぱりと否定した道満に晴明が怪訝な視線を向けた。断られるなど考えもしなかったと顔に書いているが、どうして断られると思わないのか。

「……節操や貞節の概念が欠落しているおまえに断られるとは。この私に何の不満がある?」

不満などいくらでも、それこそ星の数ほどあるが説明が面倒なのでまとめて答えることにした。

「安倍晴明であることですな」

晴明の表情は見ものだった。座の本体に見せてやりたいぐらいだし、リンボ辺りはしたり顔でご存知なかったので? などと言いつつ余計な遍歴を披露して墓穴を掘りそうだ。

晴明は平安京が三度崩壊したような表情で呆然と呟く。

「冗談を言うものではない……まさか、言伝の一つもなかったことを拗ねているのか?」

呟きながらろくでもない結論に至ったらしい晴明が心底ろくでもないことを口にした。真顔に戻っているのが道満の腹立たしさに拍車をかける。

「……拗ねてなどおりませぬし、なぜ、そこに行き着くのか拙僧にはとんと理解できませぬ」

生前はこんなヤツではなかった……と振り返ってみたが、そうとも言えない気がする。何しろ膝を交えて言葉を交わすこと自体数える程しかない。晴明が自分自身に絶対の自信を持っているのは言われずとも知っているが、まさか言い寄った相手が性別問わずことごとくなびくとでも思っているのだろうか?

「そもそもおまえが前触れもなく私の前から姿を消すのがいけない。一言あって然るべきだろうに」

「拙僧を幾度も死ぬほど追い詰めた男に言われたくありませんな」

言いがかりに近い言葉に投げやりな返事をすると道満は庭に降りて頭を振る。鈴の音と共に変化が解けた。

このまま屋根を越えて通りに出ても良かったが追いつかれるのは目に見えているし、これ以上あれこれ言われたくない。

黙っていると、苛立ちを隠しもしない晴明の声が背にぶつけられた。

「私の視界を遮って、黙って何処かで野垂れ死にしたことを怒っているんだ、私は」

つまり、晴明は蘆屋道満が死ぬところを見たかったと言うのだろうか。

指摘された通り、視界は遮った。不可視の結界が正常に機能した事実は今知ったが、それもこれも晴明に責がある。

何もかもどうでもよいと思わせたのは安倍晴明だ。だというのに最期の引き際さえ蘆屋道満から奪おうと言うのか。

道満は振り返ると板間に手のひらを叩きつけた。鈴が鳴り、式が舞う。うち数枚が晴明に届き、涼やかな目元を傷つけた。

目元に血を滲ませながら晴明は動じない。道満は晴明を見据えたまま低く声を絞り出す。

「……目の前で死ねば満足と言うのなら、今ここで素っ首掻き切ってご覧にいれようか」

千里の彼方を見通す眼が揺れた。

「違う……」

聞いたことがない声音だった。迷うような、困惑しているような、そんな声を聞いた途端、憑き物が落ちたように怒りが消える。まるで帰り道を忘れた子供のような眼差しを向ける晴明に道満はため息をついた。

座敷に戻ると晴明のそばに膝をつき、目元に滲んだ血を拭う。獣のような爪が目に入る恐れもあるというのに晴明は身動きひとつしなかった。

「何が違うのでございます。ああでもないこうでもないと、いい歳をして聞きわけのない童のように……儂に何を求めるのです?」

道満は指先についた血を舐めると幼子を諭すように晴明に問うた。あまりに頼りない姿に毒気を抜かれてしまったし、本当のところを知りたくなったのもある。

視線を泳がせた晴明は顔を伏せた。

「…………いくな」

掠れた囁きがわずかに聞こえる。

「聞こえませぬ」

あえて言い放つ道満の髪を掴んだ晴明が顔を上げた。

目が、あらぬ輝きに彩られている。切望の色だ。生前、有象無象が様々な欲と共に浮かべた色を道満は好ましく眺めていたものだが、死後とはいえ他ならぬ晴明にそのような目を向けられるとは思わなかった。

「私を置いていくな。私の目の届くところで嘘をつき、手の届くところで暴れて、私を連れていけ。おまえは二度と、私に黙って消えてはならない」

傲慢な命令ともとれる告白を道満はただ聞いた。本来であれば、平安に生きた蘆屋道満が聞くべき言葉だろうに、よりによってアルターエゴとして成立した己が聞くことになろうとは。

だから道満は、髪を掴む晴明の手をそっと外すとわざとらしくため息をつく。

「なんとまあ、強欲な」

晴明の眼差しは千里を見通すものに戻っていた。

「知らなかったのか」

「存じておりましたとも。拙僧に向けられるとは考えもしなかっただけで」

多くの人は見た目や立ち居振る舞いで誤解しがちだが、術の応酬をすればそれぐらいわかる。欲しいものを手に入れるための手段を問わないのが晴明だ。

「……そうか」

「やはり勘違いとは恐ろしいものですな。ですが、意図は理解いたしました。マスターのため、汎人類史のため、飽きるまで拙僧を監視なさればよろしい」

話は終わった。道満は立ち上がると晴明に背を向けた。そろそろカルデアに戻るべきだろう……管制室では必要最低限のモニタリングしか行っていないと聞くし、邸内の結界で会話が漏れることもないはずだが、必要以上に詮索されるのも面倒くさい。

屋敷を出るといつの間にか晴明が隣にいた。神出鬼没なのは相変わらずだ。

「……失念しておりました。拙僧、すでに監視されている身にて」

仮想空間を並んで歩きながら、道満はひとつ、監視を減らすことにした。晴明なら波風立てず穏便に事を収めるだろう。

「それは初耳だね」

「となれば晴明どの自らの監視は不要では? 監視役から拙僧の言動を聴取すれば十分では? と愚考いたします」

調子良く言いながらちらりと晴明を見ると、口元にかすかな笑みを浮かべている。

「……おまえが気にかけることではないよ。でもまあ、考えておこう」

「ええ! 是非! 是非とも熟考いただければ幸いにございます!」

晴明はカルデアに戻ったのち、監視を止めるように進言するだろう。同じ陰陽師が監視した方が良いとかなんとか適当な理由で、道満の意図など全てわかった上で動くのだろう。

「監視が解けたらおいで。話を聞きたいから」

どうせ監視されるのならより楽しめるものがいい。そんなことを思っていた道満は晴明の唐突な言葉に眉をひそめた。

「言葉なら先程嫌というほど交わしましたが、まだ足りないと?」

生前の半分ぐらいは会話を交わした気がするのだが、これ以上何を話したいというのだろうか。異星の神についてか、白紙化現象か、はたまた異聞帯についてか……考えてみると話題は案外多い。カルデアがその辺りを突っ込んでこないのが不思議なほどだ。

どの話題を振られてもしらを切るつもりでいる道満に晴明が言葉を重ねる。

「おまえの話を聞きたいと言っているんだ、アルターエゴ、蘆屋道満」

予想外の言葉に道満は一瞬、言い淀む。

「アルターエゴに語るものなどございませぬ」

言葉を返すのが精一杯だった。

蘆屋道満の一側面を抜き出し誇張し、さらに英霊として活動した特定期間の記録を有して生前とは異なる術を行使する「なにか」がアルターエゴ蘆屋道満だ。このような歪な在り方を望んだのが蘆屋道満なのかカルデアに敗北したキャスター・リンボなのかすらわからない。だからこそ、相対する者によってアルターエゴ蘆屋道満は様々な姿を見せる。マスターですら明確な姿を定義できなかった。

そんなことを気に病むほど道満は善人ではない。全て己の延長線上にあると納得できるほどには悪質だ。ふわふわと、どっちつかずのままマスターの旅路を見守るつもりだった。

「構わない。星など読みながら聞かせておくれ」

晴明はそんな「なにか」を星読みの蘆屋道満として定義するつもりでいるらしい。滑稽なほどに愚かだ。かげろうのごとくある影に思いを、情を傾けるほど無駄なことはない。

「座に戻られたら蘆屋道満本人と存分に語るとよろしい」

ことさらにそっけなく言い放ってはみたが、足が動かない。何気ない一言にここまで支配される己が情けなく、煩わしかった。

晴明は足を止めた道満など顧みることなく歩いていく。生前となにも変わらない。蘆屋道満はいつだって、安倍晴明に並ぶことができなかった。

忸怩たる思いなど何度も味わったというのに、死して影法師になった今でも慣れない。

「……カルデアの安倍晴明はカルデアの蘆屋道満の話を聞きたい。それだけの話だ」

遠ざかるばかりと思われた姿が立ち止まり、あろうことか振り返る。

晴明の思惑はわからない。いつだってわからなかったしこれからもわからない。なにもわからないのだと思ってみても、目の前の事実ぐらいは認識できる。

晴明が待っている。

「物好きでございますねえ、まったく」

並ぶのは、距離にしてほんの数歩だった。

「おまえほどではないよ」

かつて、蘆屋道満は安倍晴明に弟子として仕えたことがある。どう考えても晴明に陥れられた結果だが、隣を歩く陰陽師は何を思っていたのだろう。様々な感情にかき消されたかつての記録にまともな記述はないが、晴明の横顔を見るのはその時以来ではないかと道満は思った。

生前と変わらず涼しげで、何を考えているのかわからない、美しい顔だった。